今回は、摝兵次男泰四郎に関する記事を先取りして紹介します。親摝兵は、同役と相談し勘当措置もやむなしと覚悟して勘当を願い出たのであるが、勘当ではなく久離扱いが適当だろうと上から指示があり、久離願を出す事になった。それはなぜか。
〔翻刻文〕
六月八日到来御用状左之通り
一昨五日附之御別紙致拝見候、然者加藤摝兵殿次男泰四郎儀身持不宣度々異見等差加候得共不行跡相募、摝兵殿心底ニ不応無拠勘当致し度旨同人ゟ被申出候二付、御壱人御出府之上願書御差出可被成処、当節柄二付右願書江*貴様方奥書御取調印之上可遣候間、可然可申上旨承知申上候処、右者無御拠御儀二付*其筋へ可被仰立候得共、勘当ニ而者不宣、久離と相願候儀ニ而、当時*宿元ニ不罷在候ハヽ其訳相認載無之候而者不相成候間、此段御承知願書御認直早々御差越可被成候
右之段可得御意如斯御座候、以上
子 六月七日 山口市郎次印
松澤俊助 印
小菅十一郎
*出役無印
渡辺幸之助印
嶌田・冨田・足立宛
入記
外*内状壱封
〆
右者先達而願書差出候処、右江*懸紙ニ而差図有之、猶当方ゟ差出跡ニ相記ス
〔大意〕
関所番士加藤摝兵次男泰四郎の勘当について、あなた方番士の誰か一人が出府して願書を差し出すのがよいとは思いますが、世の中騒然たる状況であり関所の持ち場を離れられないでしょう。そこで、願書にあなた方同役の奥書・調印したものを送付いただき、勘定所の方へ差し出しましたところ、勘当ではなく久離で措置すべきという指示です。また、その時泰四郎が家にいなかった理由も書き記す必要があります。そのことを承知いただき、願書を書き直して御送付下さい。
…以上の事が懸け紙(貼り紙)で指示された。
〔翻刻文〕
六月九日
一右返翰差出ス左之通
宿継之御用状致拝見候、然者加藤摝兵次男泰四郎儀身持不宣勘当いたし度旨ニ付摝兵願書私共奥書調印之上先便差上候処、勘当ニ而ハ不宣、久離と相願可申、且又当時宿元ニ不罷在候子細認載可申上旨願書江御懸紙之上御返却成被下承知仕候、則御差図之通認替差上候間、宜被仰上被下候様奉希候
右之段御請旁如斯御座候、以上
子六月九日 足立柔兵衛
冨田潤三
嶋田耕平
渡辺幸之助殿
小菅十一郎殿
松澤俊助殿
山口市郎次殿
〔大意〕
先便の願書に対して、勘当ではなく久離とすべき事、また泰四郎が当時在宅していなかった子細を書き記す事を御懸紙の形で指図された。そのことを承知いたし書き直したので、宜しく勘定所へ上げていただきたい。
〔翻刻文〕
別紙摝兵ゟ御差図之通相認差出候書付左之通り
以書付奉願候
加藤泰四郎
当子拾九歳
右者私次男泰四郎儀平日気随ニ而身持不宣種々異見等差加候得共取用不申、小給之者手当も難行届候処、当五月廿六日無沙汰ニ罷出候侭不立帰、此上於出先何様之儀仕出可申も難計候二付、右泰四郎義久離仕度此段奉願候、以上
房川渡中田御関所番
元治元子年六月 加藤摝兵印
福所左衛門殿
右摝兵願之通相違無御座候、依之
私共奥書調印仕候、以上
房川渡中田御関所番
嶋田耕平
冨田潤三
足立柔兵衛
外ニ書面三人ゟ元〆江添摝兵ゟ□ニ壱通元〆宛ニ而差出、是ハ文略ス
〔大意〕
私加藤摝兵の次男泰四郎は、「気随」で身持ちも宜しからず、また私共の意見も聞かず、私のような安給料では小遣いなども行き届き兼ねていましたところ、5月26日に突然家出してそのまま家に帰ってきません。この先どんな迷惑な事をしでかすかも分かりませんので、泰四郎は久離に処したく御願いします。
*「貴様方奥書御取調印之上」
摝兵を除いた他の同役(嶋田・冨田・足立)の奥書(「右摝兵願之通相違無御座候、依之私共奥書調印仕候、以上」の部分)そして3人の調印
*其筋:勘定所あるいは勘定奉行
*宿:「やど」と読み、自分の家、自宅のこと
*出役無印:小菅十一郎は出張で代官所にいないため「無印」
*内状…内々の書状のこと
*懸紙…本文の増補、削除、訂正などをするために文書に貼付された紙片
*勘当と久離
「勘当」は、親が懲戒のため同居の子を放逐し、親子関係や相続権を消滅させることをいう。役所に願い出て勘当帳(久離帳)に帳付けされ、その謄本を受領して本勘当となった。但し、親が子を懲戒するために行う内証勘当もあり、のち許されて親子関係が回復される事もあった。
「久離」は、目上の者が目下の家出人や非行人の親族(子とは限らない)に対して、將來の犯罪・非行による縁座や債務負担を免れるため役所に届け、人別帳から外すことをいう。
江戸時代には久離はしばしば勘当と混同されたが、久離は失踪(欠落)した親類との親族関係を断絶する行為であるのに対して、勘当は親がこらしめのために子を放逐する行為である。久離された者はふつう帳外、すなわち人別帳から外された(国史大辞典など)。また、久離は、江戸後半期には、在宅する者を追い出し、親族関係を断絶する勘当(追出勘当)と混同されて用いられた(日本国語大辞典)。
ということで、泰四郎が勘当から久離へと変更された理由は、すでに在宅して居らず、欠落とみなされたことが大きかったと思われる。言わば失踪宣告であった。江戸期、親が子を勘当・久離する例は多いが、筆者のフィールド津軽(弘前)藩元禄飢饉期には、親が子を、祖父が孫を町奉行に願って入牢させた例も少なくない。また、関宿藩横田家の『仕宦録』(横田家仕宦録(一)・(二)千葉県立関宿城博物館 研究報告第19号・第21号)のように、家督を継ぐべき、また継いだ若者が突然出奔する例は少なくなかったとみるべきである。