代官福田所左衛門が、浮浪之徒取締のため、栗橋にやって来た。附添は山口市郎次ら3人の手付・手代。そして、旗本二人の軍120人が警衛に当たる。番士たちは、羽織袴で御機嫌伺に出た。
六月十二日
当支配御代官福田所左衛門殿、今般浮浪之徒御取締為御用御廻村ニ付、*近藤石見守殿・*戸田洗五郎殿江警衛被仰付、右御両家之家来合百拾弐人鉄炮其外鑓ニ而*着込・躰金等ニ而附添幸手出立、今夕栗橋泊りニ付例之通出迎、富田潤三・嶌田起四郎朝五ツ時*川通江罷越候処、最早*粟餅屋江着直ニ当本陣江着之上、嶋田耕平・加藤摝兵・足立柔兵衛・加藤杢兵衛御機嫌為伺羽織袴ニ而罷出相伺候処、附添手附山口市郎次・手代鈴木真三郎・手附只木豊次郎警衛之人数者外ニ宿二軒ニ止宿、所左衛門殿御会之上先般被 仰出候趣ニ付、先川筋見分其上作場船等引揚候歟、又者水中へ沈置候歟、不取締無之様申渡候様被 仰聞、夫ゟ野州辺江御越之由、就而者先達而水戸殿御家来通方ニ付勤番者頭ゟ被仰出書写持参ニ付、未タ御役所ゟハ御達無御座候得共、右御家来通し方之義ハ合印鑑持参ニ候共、*道中御奉行衆ゟ御達無之而ハ不相通趣、尤*京都表ニ水戸殿御家来罷越居候者も有之、右帰国之分者合印鑑ニ而可相通と之被仰出、私共江者御達無之先便伺差出候得共如何歟可仕哉、直所左衛門殿江伺候処、未タ役所江者右御達無之義ニ候得共、京都ゟ帰国之者之外右之通相心得合印鑑計ニ而ハ留置其段可伺由被仰聞候
*戸田洗五郎:旗本戸田家。詳細不明。
*着込:上着の下に腹巻・鎧・鎖帷子などを重ねて着ること。(日国辞)
*躰金:不明
*川通・粟餅屋:栗橋宿の南入口辺りに10軒程の粟餅屋が並んでいたという。明治・大正期には3軒程になったというが、現在はない(久喜古文書研究会会員の高塚さんの咄)。
*道中奉行:江戸幕府の職名。五街道とその付属街道宿駅の伝馬・宿泊・飛脚などの取締り、道路・橋梁などの普請、宿場の公事訴訟など、道中筋一切のことをつかさどった。万治二年(一六五九)、大目付高木伊勢守守久の兼任が最初で、元祿一一年(一六九八)、勘定奉行松平美濃守重良が兼務して以後、大目付と勘定奉行から一人ずつ兼帯した。老中の支配に属し、配下に道中方があった。(日本国語大辞典)
*京都表ニ水戸殿御家来罷越居:一橋慶喜(徳川慶喜)は、元治元年3月25日より、禁裏御守衛総督に就任。水戸家も慶喜の配下に入った。
〇水戸家ご家来衆の関所通行については、京都よりの帰国者を除き、合印鑑だけでは通行を許可せず、道中奉行の御達が必要であることを確認した。
一水戸殿御家来通方土井家ゟ写差出被仰出書付写、御代官御心得持参致度由ニ付、引取写取差出候事
一山口外弐人へも見舞夫々談之上、山口ゟ前借米半石代金被相渡候事
〇関所警備の厳重化に伴う費用として、米半石分の代金が渡された。関所番士たちの切米(給料)前借という形である。1石=2俵半=150kgだから、半石は微々たる金額である。
一此度福田所左衛門殿川筋御取締廻村之上、関宿並境町川通ゟ川俣迄之処、耕作人渡船越渡し当分之内一切不相成旨申渡、村々ゟ取置候請証文左之通之由、御附添市郎次より拙者共為心得被相渡候間相記ス
〇地元の人々が利用していた作場船も当分使用が禁止となった。その請書は以下に記す。元治元年六月十二日は、西暦1864年7月15日である。水田は何番かの草取の時期、あるいは麦刈り後の水田拵えの最中であろうか。ただ、利根川や権現堂川を往来して耕作していた田畑は、極めて稀だったようである。
差上申御請書之事
野州大平山江集屯いたし候浮浪之徒追討被仰付候ニ付、当分之内利根川通渡船場之義、旅人者勿論耕作場等江渡越候義者一切御差留相成、乗渡船者早々乗沈置、其段向側村々も兼而相断置渡越決而為致間敷、若押而渡越候者有之候ハゝ、舩漕人并乗越候ものとも一同搦捕置、早々*御廻村先江可申上事、但御用状継立御締筋ニ付御廻村被成候御役人方者、田舩等之小舩を以*村役人付添越立可致候
一利根川通乗通候舩ゟ上陸又者途中ゟ乗入候もの見受候ハヽ、船頭并乗入候もの上陸いたし候もの共一同搦捕御廻村先江早々可申上事
一同川通怪敷もの乗組候*高瀬舩乗通候ハゝ、見受次第月日刻限*上り下り之訳相認、御廻村先江早々御注進可申上事
右之通被仰渡一同承知奉畏候、依之御受証文差上申処如件
年号月日 何村役人
〆
*御廻村先:代官福田所左衛門と配下の手付・手代達の見分先
*村役人:名主・組頭・百姓代の役職達
*高瀬舩:『利根川図志』に「米五六百俵(毎俵四斗二升)を積む者常なり、舟子四人を
以てす、その大なる者は八九百俵を積む、舟子六人を以てす」とあるような大積載量と
あって船型も構造も全く異なり、世事とよぶ舟子の居室まで設けた大型川船であった。
これは東廻り航路による廻米船が銚子に入港し、十八世紀後半では毎年十五万俵前後の
米が陸揚げされ、高瀬船に積み代えて江戸に輸送するための大船化で、この利根川ルー
トは海路江戸へ直航するより高運賃についたが、廻米期にあたる冬期は海上気象が悪い
ので大いに利用された。なお、百俵積以下の小型を房丁高瀬船といい、同系の船体なが
ら世事のない小船であった。(国史大辞典・石井謙治)
(上図は京都高瀬川の高瀬船、下図は利根川の高瀬船。舳先の方に生活の場「世事」がある
のが特徴)(『日本国語大辞典』)
*上り下り:海・川とも船は右側通行である。船の上りは、川上へ向かい、下りは川下へ向
かう。
〇御用状継立や廻村の役人は、田舟で渡すことにし、耕作船も旅客船も予め川に沈めて使
えないようにするなど指示が細かく、又厳重である。
同十七日
一福田所左衛門殿并石川石見守殿・戸田洗五郎殿、家来人数召連武器等夫々為持、御関所前ゟ高瀬舩ニ而関宿迄川筋見分、夫ゟ境町泊リ之由、関東御取締出役渡辺慎次郎附添一同乗舩、尤右慎次郎通方ハ*御証文見届之上可相通義ニ有之候処、此度所左衛門附出役中者所左衛門手附ニ付*御断ニ而可通旨、御代官ゟ被申聞候間、右者承知取計候事
*「御証文」と「御断」:関東取締出役渡辺慎次郎は、関東取締出役として通行するのであれば、「御証文」を提示した上で通行を許可するのであるが、今回は代官福田所左衛門の手附として来ているから、「御断」(口頭の通告か)だけで通行許可すること。関東取締出役は、もともと代官手附や手代など、身分的には低い者が任命されていた。
一御代官*木村董平殿ゟ福田所左衛門殿江御廻し之書付写、山口市郎次ゟ私共為心得被相渡候、左之通り
道中奉行衆 水戸殿御城附
浮浪之徒野州辺江屯集いたし居候趣ニ付、水戸殿ゟ人数被差出候ニ付、此程御老中方江被申達候振も有之候処、追々不穏風説も相聞、且於*公辺も御配慮被為在、諸大名等江追討被仰付候由ニ付、水戸殿国元ゟも為取締*常州府中駅等今般人数被差出候手筈有之ニ付而者、此表ゟも下館辺江早々人数差出取締方被申付度、就夫右道中筋水戸殿人数之者通行等之儀差支無之様被致度、此段御達申置候様役人共申候
子六月
御附紙
書面之趣致承知候、其筋江相達置可申、尤千住宿関門其外御関所通行之儀者其筋江御達有之候儀と存候、依之及御挨拶候
子六月 木村甲斐守
〆
*木村董平:幕府代官の一人。当時、足立郡などの地域の代官。
*公辺:公儀・幕府・将軍家
*常州府中:石岡藩