2018年7月4日水曜日

〔第31回 活躍する目付とその配下の者〕


討伐軍の関所通行、また派遣される目付配下の御徒目付・御小人目付らの宿泊手配のことまで、事あらば種々細かな前例を持ちだし、また臨機に具体的指示を出すのが目付の役割。


御徒目付河野大五郎、御小人目付壱人、今晩中其御関所被差遣候付、其旨可相心得、且旅宿之儀も差支無之様可取計旨、其筋ゟ御達付則写壱冊差進申候、委細右ニ而御承知可被成候、且旅宿用意之儀別紙宿江者書付壱通差進候間、早々御渡万端御心添、都差支無之様御取計可被成候

一浮浪之徒為取締水戸殿家来出立付、大小炮八拾挺、弓八拾張持越候付、御関所無差支可相通旨之御達書並同断付、為追討松平右京亮殿・牧野越中守殿・堀田相模守殿後援  被仰付、武器類持越急速出張相成候間、是又御関所無差支可相通旨之御達書共写弐通差進申候、何れも委細ニ而御承知可被成候、右之通夜中御渡付即刻*刻付ヲ以差立申候、本文其外とも都無差支御取計可被成候、以上
   追入記
 一御達書   三通
 一栗橋宿之書付三通
  〆

*刻付:時刻を指定すること。刻付状は、記した時刻を明示したり、到着の時刻を指定した書状(日本国語大辞典)。

〇御徒目付と御小人目付が今晩栗橋宿に派遣されるので、御承知下さい。また、二人の宿
泊についても手配の旨目付方より御達があったので、書付を一通宿役人(問屋)に渡す
よう指示があった。また、「浮浪之徒」の取締のため、水戸殿家来が武器を所持して通
行する。またその後援軍が武器を所持して通行するので、関所を差し支えなく通行でき
る様取り計らっていただきたい。そのような内容の御達書写を刻付で発信した。滞りな
く計らっていただきたい。

(端裏書)「御勘定奉行衆」
 浮浪之徒野州辺集居候由付、水戸殿ゟ下館辺為取締家老市川三左衛門始凡人数弐百人程差出候付、中田御関所差支無之様*其筋御達可有之候、此段及御達候、以上
   六月       *杉浦兵庫頭
   〆
         御徒目付
           河野大五郎
         御小人目付 壱人
 右今晩中田御関所致出役候間、旅宿之儀差支無之様*其筋御申渡有之候様致度、此段及御達候
 六月十六日    *川村順一郎

 御勘定奉行中
追啓、前文之趣御関所も御通達可有之候、以上
  〆

(端裏書)「御勘定奉行衆」
以下の文は、目付方より勘定奉行(道中奉行)に宛てたものであることを番士島田耕平が御達書の右端裏にメモしたのである。
*:「其筋」:代官福田所左衛門。
*杉浦兵庫頭:杉浦勝誠。寄合旗本・目付。のち箱館奉行。
*「其筋」:御徒目付や御小人目付の宿泊手配をするよう栗橋宿の宿役人(問屋)に申付けたのであろう。
*川村順一郎:御徒目付や御小人目付の上司である目付であろう。

〇「浮浪之徒」取締のため、水戸家の市川三左衛門ら約二〇〇人が下館へ向かうので、関所通方差し支えなきよう取り計らっていただきたい。また、御徒目付と御小人目付が関所に出張するから、宿の手配を宿役人に申付けていただきたい。

一大小炮     八拾挺
一弓       八拾張
 右水戸殿家来野州辺浮浪之徒為取締急速出立致候付、書面之武器類持越候旨申聞候間、中田御関所無差支可相通候、尤急速之儀付員数増減も可有之候得共、承り糺之上相通候様即刻*其筋へ御通達可有之候、以上
 六月十六日      *杉浦兵庫頭
  *木村甲斐守殿

 〆
*目付杉浦兵庫頭から、勘定奉行兼道中奉行である木村甲斐守への通達である。
*其筋:勘定奉行配下の代官達のこと。

           *松平右京亮
           *牧野越中守
           *堀田相模守
浮浪之徒為追討水戸殿ゟ御人数被差出候付、後援被 仰付武器類持越急速致出張候間、昼夜不限房川渡中田御関所差支無之様早刻其筋へ御通達可有之候、以上
  六月十六日    杉浦兵庫頭
    木村甲斐守殿
追啓、堀田相模守儀*松戸御関所通行可致候間、右御関所も御通達可有之候、以上
  〆

*松平右京亮:松平(大河内)輝声(てるな)。高崎藩八万二千石。
*堀田相模守:堀田正倫(まさとも)。下総佐倉藩十一万石。
*松戸御関所
元和二年(一六一六)に幕府が利根川筋および江戸川筋に定めた一六の定船場の一つ、松戸渡に置かれた川関所。幕府はこれら一六の定船場以外での旅行者の往来を禁止し、女人・手負者や不審者の取締を図った。のち定船場は関所としての機能をいっそう強化していく。武蔵国金町(現東京都葛飾区)とを結んだ定船場松戸渡がいつ頃から関所となったのかは明らかではない。しかし寛永八年(一六三一)の金町御番衆中宛覚(葛飾区史)には利根川筋の房川(ぼうせん)渡関所(中田関所、現埼玉県栗橋町)とともに金町御番衆と記されており、この頃には松戸渡船場もすでに関所として機能していた可能性がある。金町御番衆とあるように、番衆の詰所(関所)は金町側にあり、管理は当初は郡代伊奈氏が、同氏の失脚後は幕府代官が当たった。番人四人も郡代・代官に属し、それぞれ二〇俵四人扶持であった。しかし寛政一二年(一八〇〇)そのうちの一人が中田(なかだ)関所へ転じ、後任者は二〇俵二人扶持になったという(新編武蔵風土記稿)。「諸国御関所覚書」によれば当関所では出女や手負者・囚人などの取締のほか、鉄砲・大筒の運搬に厳しかった。出女の場合、御留守居の証文を必要とし、入鉄砲・大筒は老中証文、江戸から出る者でも老中・留守居の証文を必要とした。また夜中は一切通行できなかったが、急用またはあらかじめ断っておけば通行することができた。なお当関所は渡船場に設けられていたにもかかわらず、通船の改を行わなかった点が特徴的である。
                       (『日本歴史地名体系』)

右同日
一夜五ツ時前、*御徒目付河野大五郎・*御小人目付青木金八郎入来被申聞候、此度浮浪之徒取締として水戸殿家来常州下館辺*小石川屋敷ゟ出張、其外諸家人数も出張而者武器類等も多分可持越候間、*差掛り候儀都無差支可取計旨被仰付出役いたし候旨被申聞候付、同役一同出席致し居応答致ス、

*御徒目付:江戸幕府の職名。目付の支配に属し、江戸城内の宿直、大名登城のとき玄関の取り締まり、評定所、伝奏屋敷、紅葉山および遠国への出役、ならびに幕府諸役人の公務執行状況の内偵にあたり、裁判、検使、拷問(ごうもん)、刑罰の執行にも立ち会った。百俵、五人扶持。約六〇人。徒横目。おかちめつけ。
大目付―目付―御徒目付(―)御小人目付
*御小人目付:江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。十五俵一人扶持。
*小石川屋敷:水戸藩上屋敷(後楽園)
*差掛り:切迫している

〇関所番士全員が、徒目付・小人目付の指示を聞いた。その指示の趣旨は、「浮浪之徒」の取締のために、水戸殿の家来達も下館辺りに向かい、また大名・旗本達も兵員・武器を移動させている。関所においても、切迫した状況下、支障を来さない様取り計らうことを命じられた。