「浮浪之徒」鎮圧軍が滞りなく目的地に向かえるよう、臨機応変の通行査検が、関所番士たちに求められた。場合によっては手形の合印の手続きは二の次にせよというのである。とは言っても、番士たちの厳重な査検は彼らの第一義の御用である。いい加減には出来ない。こういう場合、上からの指令・指示が事を迅速に進める。
右両人引取候後旅宿江見舞旁嶋田耕平・冨田潤三罷越問合候者、諸家人数出張之向々者殊ニ寄未タ合印鑑其筋ゟ御達無之向も可有之候得共、差懸り候節如何歟取計可致哉之段打合候処、右御徒目付被申聞候者、急場之儀ニ付兼而印鑑達し無之分并合印鑑持参無之者ニ而も事実相糺候上、付添之重立御家来印紙ニ而相通候儀ニ付、右様之儀差懸り候ハゝ、御差図可申由被申聞、且又其時々立合之上通方取計候義ニ有之哉之段問合候処其辺も相伺候処、御関所江立合ニ者及ひ不申旨被仰付候由被申聞候間、左候ハゝ差向御取計等有之候節者、時々申立候間可然御*差引被下度と申候処、委細承知之旨ニ付引取候事
*差引:ここでは指図の意。(日国大)
〇島田・冨田の二人は、両人の旅宿を訪れ、疑問な点を問い合わせた。一つは、緊急時、合印鑑が用意されていない場合どうしたらよいか。その場合は、事実をよく糺し、付添の重立・家来の印紙で通してよい。その時には、われわれ(徒目付・小人目付)が指図する。二つ目は、それではお二人は関所の通行査検に立ち合って戴けるのかと問うたところ、立合はしないと言う。それなら、こちらから時々立合を御願いしますので、その時は指図していただけますかと聞いたところ、そのことは承知していただいた。
一御徒目付・御小人目付旅宿之儀差支無之様可取計旨、*宿役人又右衛門江申付候事
同十八日
*陸軍附調役並 湯澤兼太郎
*上下弐人
歩兵差図役下役 星野正之助
上下弐人
右同 鈴木利一郎
上下弐人
右者江戸ゟ小山宿迄御用ニ付罷越候由、陸軍方合印持参断銘々手札差出候事
*宿役人又右衛門:宿場町の問屋・年寄など。「又右衞門」とは誰か?
*陸軍附調役並:『御目見え以下大槪帳』では八十俵持扶持・御役金十両とある(古事類苑 官位部)。
*上下弐人:上下二人とは、湯沢兼太郞本人を含んで総員二人のこと。「下」は挟箱持か、鑓持か。
同十九日
一今朝福田所左衛門殿中田宿出立川筋見分、今晩*大久保村泊り之由、尤境町昨日出立中田泊りニ而、今日古河領分見分いたし候事
一当所出張御徒目付御小人目付旅宿之儀、*上町萬屋五郎平宅仮旅宿申付置候処、今十九日ゟ船戸町*原勢や甚兵衛宅御用宿ニ相成候旨*役人名主良左衛門届出候事
*大久保村:現在の群馬県板倉町。
*上町萬屋五郎平:脇本陣の一つ。現在の久喜市栗橋町。
*原勢や甚兵衛:酒屋。現在の久喜市栗橋町。
*役人名主良左衛門:宿役人は、問屋・年寄・帳付・人馬指などと呼ばれ、それぞれが宿場の人馬継立や休泊業務に当たった。村役人の名主や組頭が業務を担当することもあり、村役人の名主良左衛門も宿役人として「届出」たのである。
〇代官福田所左衛門は、自分の支配領域を見分に来た。そのコースは、境宿~中田宿~古河宿~大久保村(板倉)。
同日
一支配役所江御用返翰差出ス
*当十六日*丑ノ上刻付御差立之御用状、*一昨十七日酉ノ中刻相達致拝見候、然者浮浪之徒為取締水戸殿御家老市川三右衛門始人数弐百人程江戸表ゟ常州下館辺迄被差遣候ニ付、御書付御写壱冊并ニ御同家大小炮八拾挺、弓八拾張共一同被差立、尤急速之儀ニ付員数増減も可有之ニ付、糺之上可相通旨之御書付御写壱冊被成御渡請取申候、御差支無之様取計可仕候
*丑ノ上刻:時刻については、2つの考え方がある。丑は、午前1時~3時までとみて、上刻は午前1時~1時40分位までとする考え方。もう一つは、丑は、午前2時から4時迄とみて、上刻は、午前2時~2時40分位までとする考え方である。
*当十六日丑上刻~*一昨十七日酉中刻:江戸の代官役所から栗橋宿迄約50kmある。御用状を宿継で運んだとして、10時間前後で到着したのではあるまいか。緊急時であれば、もっと早い到着も推定できる。
江戸時代の人々の生活時間の認識は、「明六ツ」・「暮六ツ」を日の替わり目としていたようであるから、それを適用すると、「当十六日」は、「明六ッ」で十七日に日替わりし「暮六ッ」(酉中刻)で十八日に替わると考えれば、この間17時間程であったということになる。
現代の日付の考え方を厳密に適用すれば、16日午前1:00の日付で差し立てられ、17日18:00前後の到着したわけであるから、41時間程かかっていることになる。
実は、筆者も初めて知ったのだが、江戸時代も含めて古代から(中国の影響)日本ではパブリックな日替わりは、「夜九ツ」=「正子」=午前0時とされてきたというのである。とすれば、御用状の「刻付」はパブリックなものと考えられるから、41時間の方が現実であったかも知れない。だが、そうか?どなたかご教示願います。
http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/201110240.htm
〇「浮浪之徒」の取締のため、水戸家の家老市川三左衛門が兵員200人と武器を持って関所を通行するはずであり、御糺しの上通行許可するようにとの書付写を受け取りました。滞りなく通行させます。
一松平右京亮殿・牧野越中守殿・堀田相模守殿、今般浮浪之徒為追討水戸殿ゟ人数被差出候ニ付、後援被仰付武器類持越候ニ付、昼夜不限可相通旨之御書付御写壱冊、被成御達請取申候
〇高崎・笠間・佐倉の大名家の軍・武器類は、水戸殿の軍の後援であるから、昼夜を問わ
ず関所を通行させる様にとの書付写を受け取った。
一御徒目付河野大五郎・御小人目付壱人、当御関所江被差遣、且旅宿等之儀も差支無之様可取計旨、*其御筋ゟ御達書御写壱冊被成御渡落手承知仕候、右ニ付宿役人共江之御用状壱封呼出早速相渡申候、則別紙請書壱通差上申候
*其御筋:御徒目付・御小人目付の上司である目付か、あるいは宿場・関所を支配統括する勘定所・勘定奉行か
〇栗橋に派遣されてきた御徒目付・御小人目付の宿の準備をする様にと御用状が関所に届
いたので、町の宿役人を呼び出し渡した。
一*御留守居衆御印鑑壱通、於*御殿御渡之由ニ而被成御達請取申候、則御請書壱通差上申候
形の発行・管理、将軍不在時には江戸城の留守を守る役割を果たした。役高は5000
石で旗本から選任され、定員は4名から8名、旗本で任じられる職では最高の職であっ
た。万石以上・城主格の待遇を受け、特権として次男まで御目見が許された他、下屋敷
を与えられた。
*御殿:ここでは城内本丸の御殿勘定所のことであろう。
〇留守居衆発行の印鑑一通を御殿勘定所が受け取り、関所に届けられた。誰が何を目途とした印鑑だろうか。
一*諸家印鑑三枚*其御筋ゟ御渡之趣を以被成御廻受取申候、右之段為御請如此御坐候、以上
子六月十九日 此方四人印
元〆四人殿
追啓、*前条御書付被成御渡候ニ付、不取敢御代官様之御旅宿先江私共罷出、右書類入御覧ニ申候、為念此段申上候
*諸家印鑑三枚:松平右京亮・牧野越中守・堀田相模守三家の通行手形
*其御筋:三家の大名家発行の判鑑ともとれるが、三家のどの軍隊も大筒以上の武器類を持参しているから、ここでは規定通り、老中奥書の武器の関所通行手形と解釈した。
*前条御書付:「同日」(六月十九日)に受け取った御用状所載の「糺之上可相通旨之御書付御写」・「昼夜不限可相通旨之御書付御写壱冊」のことであろう。
〇松平右京亮・牧野越中守・堀田相模守三家の通行手形を老中より受け取った。また、代官福田様の旅宿へ参り、前述の書付群を御覧に入れた。