2018年7月4日水曜日

〔第31回 活躍する目付とその配下の者〕


討伐軍の関所通行、また派遣される目付配下の御徒目付・御小人目付らの宿泊手配のことまで、事あらば種々細かな前例を持ちだし、また臨機に具体的指示を出すのが目付の役割。


御徒目付河野大五郎、御小人目付壱人、今晩中其御関所被差遣候付、其旨可相心得、且旅宿之儀も差支無之様可取計旨、其筋ゟ御達付則写壱冊差進申候、委細右ニ而御承知可被成候、且旅宿用意之儀別紙宿江者書付壱通差進候間、早々御渡万端御心添、都差支無之様御取計可被成候

一浮浪之徒為取締水戸殿家来出立付、大小炮八拾挺、弓八拾張持越候付、御関所無差支可相通旨之御達書並同断付、為追討松平右京亮殿・牧野越中守殿・堀田相模守殿後援  被仰付、武器類持越急速出張相成候間、是又御関所無差支可相通旨之御達書共写弐通差進申候、何れも委細ニ而御承知可被成候、右之通夜中御渡付即刻*刻付ヲ以差立申候、本文其外とも都無差支御取計可被成候、以上
   追入記
 一御達書   三通
 一栗橋宿之書付三通
  〆

*刻付:時刻を指定すること。刻付状は、記した時刻を明示したり、到着の時刻を指定した書状(日本国語大辞典)。

〇御徒目付と御小人目付が今晩栗橋宿に派遣されるので、御承知下さい。また、二人の宿
泊についても手配の旨目付方より御達があったので、書付を一通宿役人(問屋)に渡す
よう指示があった。また、「浮浪之徒」の取締のため、水戸殿家来が武器を所持して通
行する。またその後援軍が武器を所持して通行するので、関所を差し支えなく通行でき
る様取り計らっていただきたい。そのような内容の御達書写を刻付で発信した。滞りな
く計らっていただきたい。

(端裏書)「御勘定奉行衆」
 浮浪之徒野州辺集居候由付、水戸殿ゟ下館辺為取締家老市川三左衛門始凡人数弐百人程差出候付、中田御関所差支無之様*其筋御達可有之候、此段及御達候、以上
   六月       *杉浦兵庫頭
   〆
         御徒目付
           河野大五郎
         御小人目付 壱人
 右今晩中田御関所致出役候間、旅宿之儀差支無之様*其筋御申渡有之候様致度、此段及御達候
 六月十六日    *川村順一郎

 御勘定奉行中
追啓、前文之趣御関所も御通達可有之候、以上
  〆

(端裏書)「御勘定奉行衆」
以下の文は、目付方より勘定奉行(道中奉行)に宛てたものであることを番士島田耕平が御達書の右端裏にメモしたのである。
*:「其筋」:代官福田所左衛門。
*杉浦兵庫頭:杉浦勝誠。寄合旗本・目付。のち箱館奉行。
*「其筋」:御徒目付や御小人目付の宿泊手配をするよう栗橋宿の宿役人(問屋)に申付けたのであろう。
*川村順一郎:御徒目付や御小人目付の上司である目付であろう。

〇「浮浪之徒」取締のため、水戸家の市川三左衛門ら約二〇〇人が下館へ向かうので、関所通方差し支えなきよう取り計らっていただきたい。また、御徒目付と御小人目付が関所に出張するから、宿の手配を宿役人に申付けていただきたい。

一大小炮     八拾挺
一弓       八拾張
 右水戸殿家来野州辺浮浪之徒為取締急速出立致候付、書面之武器類持越候旨申聞候間、中田御関所無差支可相通候、尤急速之儀付員数増減も可有之候得共、承り糺之上相通候様即刻*其筋へ御通達可有之候、以上
 六月十六日      *杉浦兵庫頭
  *木村甲斐守殿

 〆
*目付杉浦兵庫頭から、勘定奉行兼道中奉行である木村甲斐守への通達である。
*其筋:勘定奉行配下の代官達のこと。

           *松平右京亮
           *牧野越中守
           *堀田相模守
浮浪之徒為追討水戸殿ゟ御人数被差出候付、後援被 仰付武器類持越急速致出張候間、昼夜不限房川渡中田御関所差支無之様早刻其筋へ御通達可有之候、以上
  六月十六日    杉浦兵庫頭
    木村甲斐守殿
追啓、堀田相模守儀*松戸御関所通行可致候間、右御関所も御通達可有之候、以上
  〆

*松平右京亮:松平(大河内)輝声(てるな)。高崎藩八万二千石。
*堀田相模守:堀田正倫(まさとも)。下総佐倉藩十一万石。
*松戸御関所
元和二年(一六一六)に幕府が利根川筋および江戸川筋に定めた一六の定船場の一つ、松戸渡に置かれた川関所。幕府はこれら一六の定船場以外での旅行者の往来を禁止し、女人・手負者や不審者の取締を図った。のち定船場は関所としての機能をいっそう強化していく。武蔵国金町(現東京都葛飾区)とを結んだ定船場松戸渡がいつ頃から関所となったのかは明らかではない。しかし寛永八年(一六三一)の金町御番衆中宛覚(葛飾区史)には利根川筋の房川(ぼうせん)渡関所(中田関所、現埼玉県栗橋町)とともに金町御番衆と記されており、この頃には松戸渡船場もすでに関所として機能していた可能性がある。金町御番衆とあるように、番衆の詰所(関所)は金町側にあり、管理は当初は郡代伊奈氏が、同氏の失脚後は幕府代官が当たった。番人四人も郡代・代官に属し、それぞれ二〇俵四人扶持であった。しかし寛政一二年(一八〇〇)そのうちの一人が中田(なかだ)関所へ転じ、後任者は二〇俵二人扶持になったという(新編武蔵風土記稿)。「諸国御関所覚書」によれば当関所では出女や手負者・囚人などの取締のほか、鉄砲・大筒の運搬に厳しかった。出女の場合、御留守居の証文を必要とし、入鉄砲・大筒は老中証文、江戸から出る者でも老中・留守居の証文を必要とした。また夜中は一切通行できなかったが、急用またはあらかじめ断っておけば通行することができた。なお当関所は渡船場に設けられていたにもかかわらず、通船の改を行わなかった点が特徴的である。
                       (『日本歴史地名体系』)

右同日
一夜五ツ時前、*御徒目付河野大五郎・*御小人目付青木金八郎入来被申聞候、此度浮浪之徒取締として水戸殿家来常州下館辺*小石川屋敷ゟ出張、其外諸家人数も出張而者武器類等も多分可持越候間、*差掛り候儀都無差支可取計旨被仰付出役いたし候旨被申聞候付、同役一同出席致し居応答致ス、

*御徒目付:江戸幕府の職名。目付の支配に属し、江戸城内の宿直、大名登城のとき玄関の取り締まり、評定所、伝奏屋敷、紅葉山および遠国への出役、ならびに幕府諸役人の公務執行状況の内偵にあたり、裁判、検使、拷問(ごうもん)、刑罰の執行にも立ち会った。百俵、五人扶持。約六〇人。徒横目。おかちめつけ。
大目付―目付―御徒目付(―)御小人目付
*御小人目付:江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。十五俵一人扶持。
*小石川屋敷:水戸藩上屋敷(後楽園)
*差掛り:切迫している

〇関所番士全員が、徒目付・小人目付の指示を聞いた。その指示の趣旨は、「浮浪之徒」の取締のために、水戸殿の家来達も下館辺りに向かい、また大名・旗本達も兵員・武器を移動させている。関所においても、切迫した状況下、支障を来さない様取り計らうことを命じられた。







2018年6月3日日曜日

〔第30回 水戸藩執政市川三左衛門の来歴〕



 天狗党と鋭く対立した諸生党の中心人物、市川三左衛門。これから以後、水戸藩の「浮浪之徒」討伐軍を指揮し、また、水戸藩執政として藩の権力を握り、幕府若年寄田沼玄蕃率いる幕府軍と共に、天狗党を壊滅させることになる。今回は、市川三左衛門の来歴を紹介する。

同日
一支配御役所ゟ御用書到来左之通り
以宿継致啓上候、然浮浪之徒為取締水戸殿家老*市川三左衛門始人数弐百人程下館辺相越候付、其御関所差支無之様通方可取計旨其御筋ゟ御達付、則写壱冊差進申候、委細右ニ而御承知可被成候、且諸家印鑑三枚是又其御筋ゟ御渡付差進申候、御落手可被成候、右可得御意如斯御坐候、以上
   子六月十六日  山口市郎次
              在出無印
           松澤俊助
              不詰合無印
           小菅十一郎 印
           渡辺幸之助
              不詰合無印
    此方四人殿
   入記
 一水戸殿家老御関所通方之儀付御達書写壱冊                
 一諸家印       三枚

*市川三左衛門
市川 弘美(いちかわ ひろとみ、文化131816)年- 明治2年4月3日(1869年5月14日))は、幕末の水戸藩士。通称三左衛門(さんざえもん)の名で知られる。他の通称は善次郎、主計。
来歴
水戸藩士・市川弘教(1000石)の二男として生まれる。弘教の長男・弘業の死去後の1843年に家督を相続。小納戸頭や小姓頭、馬廻頭、大寄合頭等の要職を歴任し、門閥派(諸生党)の重鎮として改革派(天狗党)と対立した。1860年、尊皇攘夷的な改革路線を推進した藩主徳川斉昭が死去すると、若年の藩主徳川慶篤のもと藩論は幾つにも分断され、藩内抗争は激しさを増した。その中で市川ら保守派は、尊攘派の武田耕雲斎らの率いる天狗党と鋭く対立した。
1864年、天狗党の筑波山挙兵にあたり、市川らは幕府の援助を受けて乱の鎮定に努め、天狗党の敗走後は執政として自ら藩の実権を掌握した。一躍、家禄3000石に加増されるなど独裁的な栄華を極め、天狗党関係者を徹底的に処罰した。
1868年、幕府が江戸城を明け渡して徳川慶喜も水戸に謹慎することになると、京都における本圀寺勢(天狗党派)が藩の実権を握ることが必至となった。情勢の不利を察した市川は4月、諸生党約500名を率いて水戸を脱出し、戊辰戦争においては奥羽・越後各地を転戦して官軍と戦う。しかし、9月に会津が落城すると行き場を失って再度水戸へ戻り、藩校弘道館に拠って水戸城に拠る本圀寺勢と戦闘に及んだ(弘道館戦争)。しかし、市川自身も二人の子息を失うなど多数の死傷者をだして下総方面へ敗走し、銚子や匝瑳にて追討される(松山戦争)。これによって諸生党残党は壊滅したが、市川は脱して江戸に潜伏した。
市川は江戸市中の寺院や旧友宅に潜伏したが、1869年2月に藩の捕吏に縛されて水戸へ移送された。4月、水戸郊外の長岡原で逆さ磔の極刑に処された。墓所は水戸市の祇園寺。なお同寺には諸生党士の慰霊碑がある。
備考
江戸潜伏中の市川は、フランス語を学ぶなどフランスへの亡命を企てていたが、密航当日は波浪のため中止となった。その翌日、捕縛されている。
水戸収監後、過酷な拷問にあったものの、痛みを知らぬほど全く音を上げなかった。しかし、極刑前に最期の希望を問われると鰻飯を所望し、給された鰻飯を食べたと伝わる。
極刑が執行される際、市川は「勝負はこれから。」と叫んだと伝えられる。辞世の歌は「君ゆえに すつる命はおしまねど 忠が不忠に なるぞ悲しき」とされる。
(ウィキペディアより)





2018年5月7日月曜日

〔第29回 代官福田所左衛門の廻村〕



代官福田所左衛門が、浮浪之徒取締のため、栗橋にやって来た。附添は山口市郎次ら3人の手付・手代。そして、旗本二人の軍120人が警衛に当たる。番士たちは、羽織袴で御機嫌伺に出た。





六月十二日
 当支配御代官福田所左衛門殿、今般浮浪之徒御取締為御用御廻村付、*近藤石見守殿・*戸田洗五郎殿警衛被仰付、右御両家之家来合百拾弐人鉄炮其外鑓ニ而*着込・躰金等ニ而附添幸手出立、今夕栗橋泊り付例之通出迎、富田潤三・嶌田起四郎朝五ツ時*川通罷越候処、最早*粟餅屋着直当本陣着之上、嶋田耕平・加藤摝兵・足立柔兵衛・加藤杢兵衛御機嫌為伺羽織袴ニ而罷出相伺候処、附添手附山口市郎次・手代鈴木真三郎・手附只木豊次郎警衛之人数宿二軒止宿、所左衛門殿御会之上先般被 仰出候趣付、先川筋見分其上作場船等引揚候歟、又水中へ沈置候歟、不取締無之様申渡候様被 仰聞、夫ゟ野州辺御越之由、就而者先達水戸殿御家来通方付勤番者頭ゟ被仰出書写持参付、未タ御役所ゟハ御達無御座候得共、右御家来通し方之義ハ合印鑑持参候共、*道中御奉行衆ゟ御達無之ハ不相通趣、尤*京都表水戸殿御家来罷越居候者も有之、右帰国之分合印鑑ニ而可相通と之被仰出、私共江者御達無之先便伺差出候得共如何歟可仕哉、直所左衛門殿伺候処、未タ役所江者右御達無之義候得共、京都ゟ帰国之者之外右之通相心得合印鑑計ニ而ハ留置其段可伺由被仰聞候

*戸田洗五郎:旗本戸田家。詳細不明。
*着込:上着の下に腹巻・鎧・鎖帷子などを重ねて着ること。(日国辞)
*躰金:不明
*川通・粟餅屋:栗橋宿の南入口辺りに10軒程の粟餅屋が並んでいたという。明治・大正期には3軒程になったというが、現在はない(久喜古文書研究会会員の高塚さんの咄)。
*道中奉行:江戸幕府の職名。五街道とその付属街道宿駅の伝馬・宿泊・飛脚などの取締り、道路・橋梁などの普請、宿場の公事訴訟など、道中筋一切のことをつかさどった。万治二年(一六五九)、大目付高木伊勢守守久の兼任が最初で、元祿一一年(一六九八)、勘定奉行松平美濃守重良が兼務して以後、大目付と勘定奉行から一人ずつ兼帯した。老中の支配に属し、配下に道中方があった。(日本国語大辞典)
*京都表水戸殿御家来罷越居:一橋慶喜(徳川慶喜)は、元治元年3月25日より、禁裏御守衛総督に就任。水戸家も慶喜の配下に入った。

〇水戸家ご家来衆の関所通行については、京都よりの帰国者を除き、合印鑑だけでは通行を許可せず、道中奉行の御達が必要であることを確認した。

一水戸殿御家来通方土井家ゟ写差出被仰出書付写、御代官御心得持参致度由付、引取写取差出候事
一山口外弐人へも見舞夫々談之上、山口ゟ前借米半石代金被相渡候事

〇関所警備の厳重化に伴う費用として、米半石分の代金が渡された。関所番士たちの切米(給料)前借という形である。1石=2俵半=150kgだから、半石は微々たる金額である。

一此度福田所左衛門殿川筋御取締廻村之上、関宿並境町川通ゟ川俣迄之処、耕作人渡船越渡し当分之内一切不相成旨申渡、村々ゟ取置候請証文左之通之由、御附添市郎次より拙者共為心得被相渡候間相記ス

〇地元の人々が利用していた作場船も当分使用が禁止となった。その請書は以下に記す。元治元年六月十二日は、西暦164年7月15日である。水田は何番かの草取の時期、あるいは麦刈り後の水田拵えの最中であろうか。ただ、利根川や権現堂川を往来して耕作していた田畑は、極めて稀だったようである。

  差上申御請書之事
野州大平山集屯いたし候浮浪之徒追討被仰付候付、当分之内利根川通渡船場之義、旅人勿論耕作場等渡越候義一切御差留相成、乗渡船早々乗沈置、其段向側村々も兼相断置渡越決為致間敷、若押渡越候者有之候ハゝ、舩漕人并乗越候ものとも一同搦捕置、早々*御廻村先可申上事、但御用状継立御締筋付御廻村被成候御役人方、田舩等之小舩を以*村役人付添越立可致候

一利根川通乗通候舩ゟ上陸又途中ゟ乗入候もの見受候ハヽ、船頭并乗入候もの上陸いたし候もの共一同搦捕御廻村先早々可申上事

一同川通怪敷もの乗組候*高瀬舩乗通候ハゝ、見受次第月日刻限*上り下り之訳相認、御廻村先早々御注進可申上事
右之通被仰渡一同承知奉畏候、依之御受証文差上申処如件
年号月日    何村役人
  〆

*御廻村先:代官福田所左衛門と配下の手付・手代達の見分先
*村役人:名主・組頭・百姓代の役職達
*高瀬舩:『利根川図志』に「米五六百俵(毎俵四斗二升)を積む者常なり、舟子四人を
 以てす、その大なる者は八九百俵を積む、舟子六人を以てす」とあるような大積載量と
 あって船型も構造も全く異なり、世事とよぶ舟子の居室まで設けた大型川船であった。
 これは東廻り航路による廻米船が銚子に入港し、十八世紀後半では毎年十五万俵前後の
 米が陸揚げされ、高瀬船に積み代えて江戸に輸送するための大船化で、この利根川ルー
 トは海路江戸へ直航するより高運賃についたが、廻米期にあたる冬期は海上気象が悪い
 ので大いに利用された。なお、百俵積以下の小型を房丁高瀬船といい、同系の船体なが
 ら世事のない小船であった。(国史大辞典・石井謙治)



(上図は京都高瀬川の高瀬船、下図は利根川の高瀬船。舳先の方に生活の場「世事」がある
のが特徴)(『日本国語大辞典』)

*上り下り:海・川とも船は右側通行である。船の上りは、川上へ向かい、下りは川下へ向
 かう。

〇御用状継立や廻村の役人は、田舟で渡すことにし、耕作船も旅客船も予め川に沈めて使
えないようにするなど指示が細かく、又厳重である。

同十七日
一福田所左衛門殿并石川石見守殿・戸田洗五郎殿、家来人数召連武器等夫々為持、御関所前ゟ高瀬舩ニ而関宿迄川筋見分、夫ゟ境町泊リ之由、関東御取締出役渡辺慎次郎附添一同乗舩、尤右慎次郎通方ハ*御証文見届之上可相通義有之候処、此度所左衛門附出役中所左衛門手附付*御断ニ而可通旨、御代官ゟ被申聞候間、右承知取計候事

*「御証文」と「御断」:関東取締出役渡辺慎次郎は、関東取締出役として通行するのであれば、「御証文」を提示した上で通行を許可するのであるが、今回は代官福田所左衛門の手附として来ているから、「御断」(口頭の通告か)だけで通行許可すること。関東取締出役は、もともと代官手附や手代など、身分的には低い者が任命されていた。

一御代官*木村董平殿ゟ福田所左衛門殿御廻し之書付写、山口市郎次ゟ私共為心得被相渡候、左之通り
 道中奉行衆                水戸殿御城附
浮浪之徒野州辺屯集いたし居候趣付、水戸殿ゟ人数被差出候付、此程御老中方被申達候振も有之候処、追々不穏風説も相聞、且於*公辺も御配慮被為在、諸大名等追討被仰付候由付、水戸殿国元ゟも為取締*常州府中駅等今般人数被差出候手筈有之而者、此表ゟも下館辺早々人数差出取締方被申付度、就夫右道中筋水戸殿人数之者通行等之儀差支無之様被致度、此段御達申置候様役人共申候
 子六月
 御附紙
  書面之趣致承知候、其筋相達置可申、尤千住宿関門其外御関所通行之儀其筋御達有之候儀と存候、依之及御挨拶候
   子六月     木村甲斐守
  〆
*木村董平:幕府代官の一人。当時、足立郡などの地域の代官。
*公辺:公儀・幕府・将軍家
*常州府中:石岡藩







2018年4月3日火曜日

〔第28回 真岡陣屋警衛に向かう幕府旗本軍〕


久喜古文書研究会は、4月2日総会をもち、平成30年度がスタートしました。会員16名。引き続き島田家文書(久喜市文化財・久喜市所蔵)の元治元年7月の関所番士「留書」の精読と、久喜町打ちこわしに関連して天保7年「琴寄村打ちこわし」の史料(埼玉県立文書館管理)を読んで参ります。難解な史料ですが、会員の皆で知恵を出し合って、天保期打ちこわしの核心部分へと踏み込みたいと考えております。

新規会員大募集です。好奇心のみ持参でおいで下さい。


栗橋関所番士たちの支配責任者、代官福田所左衛門が、関所周辺の廻村のために出張してきた。
関所では、大名・旗本の軍隊・兵器が大量に通行していった。その中で、幕府御料地の真岡代官所陣屋の警衛のため、関所に差し掛かった寄合旗本の石川伊予守・近藤登之助の軍と兵器が、足止めされた。合印の判鑑がまだ届いていないという初歩的ミス。近在にいたと思われる代官福田所左衛門の所まで早駕籠を飛ばし、御用状と印鑑を渡され、恐らく夕暮時過ぎて渡河していったと思われる。



六月十五日
一七ツ時前*石川伊予守殿・*近藤登之助殿此度御代官山内源七郎殿支配真岡陣屋警衛被仰付、急速人数彼地出張之由ニ而合印差出候処未タ当方へ御達無之、通方差支之趣申談遣候処、当御代官昨夜出張先旅宿迄右家来早駕籠ニ而罷越、差図御請候由ニ而所左衛門方ゟ御用状到来左之通以御用状致啓上候、然石川伊予守殿・近藤登助殿合印鑑弐枚差進申候、右御警衛人数之義付合印鑑へ御引合早々御通し可被成候、右可得御意如斯御座候、以上
      子六月十五日  山口市郎次印
            松澤俊助
             *不詰合無印
            小菅十一郎
            渡辺幸之助
     此方四人殿

*前書之通可被得其意候、以上
     福田所左衛門 印

*石川伊予守:三河大島村を本貫地とするの寄合旗本(7000石)、石川靭負のことか。

*近藤登之助
 交代寄合の旗本。遠江国引佐郡今川氏に従っていた国人の一人。通字として祖先藤原叙用に由来する「」(もち)の字が使用された。永禄11年(1568)の徳川家康による遠江侵攻を機に転属、家康の配下として近藤秀用が多くの功を挙げた。井伊直政の寄騎に付けられて働きを示すと、秀用の晩年には一万七千石の所領を有する大名に累進したが、浜名湖北岸に在った所領を子息たちに分知したため、以降は旗本として存続した。近藤登助(のぼりのすけ)とは、秀用の直系(宗家)を示す通称である(ウィキペディア)。
*不詰合無印:山口市郎次の捺印だけあり、他の三名はその場に居合わせず無印とある。代官福田所左衛門の出張に同行していたのは、山口市郎次だけであり、そこで山口市郎次が押捺し、所左衛門が奥書捺印したのであろう。

*「前書之通可被得其意候、以上
     福田所左衛門 印」
 この部分が、「奥書」である。奥書とは、書類に記載された事実が正しい事を証明するために、その末尾に書き入れられた記事(原則として異筆)(日本国語大辞典)を指す。
ここでは、所左衛門の御用状(山口市郎次の筆か?)の末尾の二行と奥印を指す。

〇こののち激しい戦闘が行われた真岡陣屋警衛のため石川伊予守・近藤登之助の兵員・武器の大通行が関所に差し掛かったが、肝腎の判鑑がまだ関所に届いていないので、通すわけにはいかない。そこで家来が早駕籠で代官福田所左衛門の出張先まで出かけ、御用状と印鑑二枚を受け取って来た。一行は、午後4時頃から関所で待機していたのであろうが、その日のうちに通行していった。


   入記
一石川伊予守殿外壱人印鑑弐枚
一市郎次ゟ*内状  壱封
  〆
 以手紙啓上仕候、然石川伊予守殿外御壱人御警衛人数持参致し候鉄砲通方之儀、夫々御関所之規則も御座可有候得共、御警衛之義殊*差掛り候義付、差支不相成様御通し方御取計有之候様可申入と*御内命御座候間、左様御承知宜御取計可被下候、右可得其意如此御座候、以上
  六月十五日  山口市郎次
房川渡御関所
     御当番衆中様

*内状:ナイジョウ。内々の手紙。
*差掛り:切迫する(日本国語大辞典)
*御内命:ここでは代官福田所左衛門の内々の命令のこと。

〇山口市郎次の内状は、以下のような内容である。真岡陣屋警衛のための兵員・鉄砲の関所通行については、種々規則はあるだろうが状況は切迫していることでもあり、警衛に支障をきたさないよう通行させるというのが、代官の命令である。

右同日
一石川伊予守殿人数百人
  鉄炮拾挺 八匁ケヘル
  具足四領 真壁直右衛門断出証文差出候
   〆
一近藤登助殿 士分・足軽共五拾五人其外通
  ケヘル弐拾挺
  小具足五拾五人分
     鈴木為之進持参断候
右之通野州真岡御陣屋為警衛通行
   〆
右之外諸家武器人数等大通行ハ候得共相記不申、右両家合印差支等も有之次第相記ス

〇石川家・近藤家は合印に瑕疵があった事情から留書に記したが、他にも多くの兵員・武器が通行していった。そのことは書き記さない。この記事からも分かるように、この頃の銃は、ゲベーレ銃が主であった。