栗橋宿に差留の荷物………、江戸の代官支配所も動く
〔翻刻文〕
四月廿ニ日
一日光御祭礼奉行堀田摂津守(※26)殿御用済帰府古河出立ニ而通行鉄炮其外夫々持参之事
右同日
一日光御廿日(※27)御名代内藤若狭守(※28)殿御用済帰府通行余者文略ス
四月廿二日
一支配御役所(※29)ゟ御用状到来左之通り
宿継ぎを以致啓上候、然者歩兵屯所ゟ添触ヲ以差立候荷物御差留之趣先便御申越二付、右次第者宿役人ゟ日光在勤之御目付方江申出させ差図次第御継立被成候歟、当方ニ而其筋へ申立継立方申進候儀歟、御申越有之候様申進候義之処、御心得方御申越迄ニ而宿役人共ゟ御目付江申出候様御申付被成候義歟、右之廉聢と御申越無之難相分候二付、自然差向入用之品長々差留置不都合之義等出来候而ハ如何ニ付歩兵屯所江及打合候処、右者野陣等張候節入用之品々ニ而早々不差送候而者差支候旨申聞候間、然ル上者早々合印鑑相廻候様可取計旨申談置候処、右印鑑早々可差立旨ニ而今日御目付方ゟ相廻候間差進申候、御落手御差留之荷物宿役人共ゟ日光表江申出通方同所在勤之御目付方より達有之継立相成候得者宜敷候ヘ共いまた達も無之候ハヽ、右合印鑑へ添触御引合相違も無之候ハヽ、早々通し方御取計可被成候、右之外御用筋印鑑廻し方者略ス
右之段可得御意如斯御座候、以上
子四月廿一日 山口市郎次印
松澤俊助 同
小菅十一郎同
渡辺幸之助同
此方四人殿
入記
〔訳文〕
四月二十ニ日
一日光御祭礼奉行の堀田摂津守殿が御用を済ませ江戸に帰る、古河を出立して(関所)を通行なされた、一行は鉄炮その外持参の事
右同日
一日光大猷院御祥忌法要の御名代、内藤若狭守殿が御用を済ませ江戸へ帰る、(関所)を通行なされた、あとは文略す
四月二十二日
一支配御役所より御用状が到来した、左の通り
宿継ぎで御手紙差し上げます。
さて、先の御手紙では、歩兵屯所より添触を添えて発送した荷物を差し留めにしたとのこと、そして宿役人の方からお知らせ申して日光在勤の御目付方の差図をまって継立するのか、あるいはわれわれ代官支配所がその筋(小川屯所)へ申し立てて継立方を(関所番士へ)お知らせするのか、指示していただきたいとの事ですが、御手紙の様に宿役人共より御目付へ申し出て御指示を仰ぐことについては、御手紙でもはっきりとした指示もなく曖昧であります。
差しあたり入用の物資をいつまでも差し留め置き、もしも不都合な事が発生しては問題ですので、歩兵屯所へ打ち合わせに参りましたところ、当該荷物は野陣等を張る際入用の物資であり、早々に送ってやらないと支障があると教えられました。
そこで早々に合印鑑を廻すよう申し上げたところ、今日御目付方より廻す運びとなりました。お受け取り下さい。
宿役人共より日光表へ申し出て在勤の御目付方の御達によって継立できれば宜しいのですが、未だ御達もないのであれば、右の合印鑑へ添触を引き合わせ問題がなければ、早々に通すよう取り計るべきです。
〔右の外の御用筋の印鑑の廻し方については略す。―関所番士島田耕平の書き加え:筆者注〕
右の内容につき、ご了承なさってください、以上
子四月二十一日 山口市郎次印
松澤俊助 同
小菅十一郎同
渡辺幸之助同
こちら四人(我々関所番士)殿
入記
〔注釈〕
※26堀田摂津守:堀田 正頌(天保13年11月13日~明治29年5月11日)。下野国佐野藩主第3代。譜代1万6千石。佐倉藩堀田家分家8代。従五位下、左京亮、摂津守、信濃守。のち子爵。
※27日光御廿日:徳川家光(諡号・大猷院)。死没日(慶安4年4月20日=1651年6月8日)
※28内藤若狭守:内藤頼直(1840-1879)信濃高遠藩8代藩主。従五位下、左京亮、大和守、駿河守、若狭守。
※29支配御役所:関東に支配所がある代官は、原則本陳屋を持たず、拝領屋敷を改装した江戸役所で執務した。代官の居宅兼宿舎、手付・手代の住む長屋、米蔵、土蔵、白州、牢屋などから構成され、概ね長屋門と白壁の高塀に囲まれていた。福田所左衛門は、22名の手付・手代を抱えていた(『県令集覧』)。代官については、『代官の日常生活』(西沢淳男 2004 講談社)に詳しい。
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