2018年3月4日日曜日

〔第27回 御触書と御附札〕


「版画歴史絵巻 五所川原」(部分)(『あおもり草子』より 2014年4月1日発行)

正保年間(1644~1648)、五所川原地域の開発が始まった。弘前藩領内や山形・秋田などから、多くの人々が望みを抱いてやって来た。                 
だが、「萢」と呼ばれる湿地帯からいかに悪水を抜くか(「腰切田」と言われたりする)、乱流する岩木川とどう付き合うか、また夏の冷涼北東風(「ヤマセ」)や冬の豪風雪(毎年「地吹雪体験ツアー」が実施されている)、頻発する(大)飢饉(寛永・元禄・天明・天保など)との闘い、そして弘前藩の苛政の中、本州最北の辺境地帯で米作に挑んだ人たちが、描かれている。                               
 

さて、今回は、栗橋関所勤番を命じられた古河藩など関東一帯の大名に発せられた幕府の御触書(5月)と、関所番士の「水戸殿御家来通方」の問い合わせに対する返書である御附札(4月)を紹介する。




土井大炊頭殿家来ゟ差出候御触書写
      大目付
浮浪之徒取締方之儀付、関八州・越後・信濃国領分知行有之向、今般相觸候趣も有之候而者、右大平山・筑波等罷在候もの共所々散乱致し、先々おゐて又々何様之挙動可致も難計候間、右国々之外も右之趣相心得、銘々領分知行限家来差出時々見廻り厳重取締方致し、関所有之向心付往来人相改、尤水戸殿御家来ニ而用向等有之上方筋其外所
旅行致し候者、其段道中奉行ゟ相達候筈候間、一ト通御同家印鑑而巳持参致し候分差留通行為致間敷、若押可罷通と仕成候もの有之候差押可被申立、万一手向等致し候ものも有之候討捨候とも不苦候
但*水戸殿御家来当節京都罷越居候ものも有之候間、右帰国之分是迄之通印鑑を以相改可相通候、右之趣関八州外領分知行有之面々不洩様可被相觸候
    子五月

*「京都罷越居候もの…帰国之分」:
京都から水戸方面へ中山道ルートで帰国する場合、栗橋関所・古河宿を通るルートが最短コースである。庶民は、碓氷関所で手形書換をして貰い、その書換手形で栗橋関所を通行する事も出来た。

〇関所番士達は、幕府より「浮浪之徒」取締に関連すると思われる大名に発令された御触(「大目付」の形式を取るのが普通)を古河領土井氏家来から入手し、その内容を写し把握した。
「浮浪之徒」の厳重取り締まり、特に関所のある領分では厳しく人改めをする事、また水戸家家来の関所通行は、道中奉行よりあらかじめ通達してあるはずだから、従来のように水戸家の印鑑のみでは通行させない事、強引に通行しようとする者が居れば斬り捨ててもよい事、但し水戸家家来の中には京都警護から帰国する者がいるから、その者たちについては従来通り水戸家合印鑑のみで通してよいと記されている。

 
一当四月中水戸殿御家来通方申立候処、御伺書御附札之写左之通
書面伺之趣水戸殿ゟ被差出候印鑑持参候ハヽ通行為致可申、尤壱枚印鑑ニ而多人数通行いたし候歟、乱妨ケ間敷儀有之候ハヽ差留置得と相糺候上、弥不審も無之候ハヽ通行可為致旨、板 周防守殿被 仰渡候間、其段御関所番可被申渡候、
  〆
一追々厳重之趣被仰出候付、当関所川筋持場上*大越下前林・元栗橋船場迄同役共折々見廻り、壱村限村役人呼出船場取締方申付候事

*「上*大越下前林・元栗橋船場迄」:
 大越(オオゴエ)は現在の加須市大越、利根川右岸には河岸・船渡場(作場渡)があった。元栗橋は現在の茨城県五霞町元栗橋、当時は権現堂川左岸、権現堂河岸も近く、船渡場(作場渡)もあった。前林は現在の古河市前林と五霞町前林が利根川を挟んで存在する。大越から前林までは、直線距離にして約12~13kmある。

〇関所番士達は、四月に老中板倉周防守から命令された内容を確認のために写し取っている。それは、水戸家家来の通行は基本的には、通常の合印鑑で通行させてよいというものだった。ただし、状況次第で引き続き新たな命令も出されるとした上で、栗橋中田関所の持ち場の川筋の見廻り、特に船場の取締を番士達に指示している。

六月十四日
一日光御名代 土岐左京太夫殿右御登山通行此度
*還御被為済候付御名代之由也、外相記し不申候事

*平出(行改め)

〇将軍家茂が上方より無事帰府したことを、日光山へ報告のため東叡山寛永寺輪王寺宮の御名代土岐左京太夫が通行した。








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