もしも「日光浪人共」が江戸に向けて栗橋関所を通行するとなったら、(われわれ)関所番士はどう対処すべきか?今回は、関所番士たちと上部機関との伺ー指示関係が大雑把ながら分かります。
〔翻刻文〕
一房川渡中田御関所通方ニ付伺書御下知済写壱冊
〆
〔訳文〕
一房川渡中田御関所通し方に付、伺書と御下知済写し壱冊
〆
〔翻刻文〕
房川渡中田御関所通方之儀ニ付伺書
〔訳文〕
房川渡中田御関所通し方の件に付伺書(関所番士)
〔翻刻文〕
房川渡中田御関所番人共申立候趣、左ニ申上候
水戸殿領分江相集候浪人多人数、此程追々日光山江立入候趣及承候処、当月十一日午中刻頃、水戸殿家来側用人美濃部又五郎上下六人・目付役山国兵部上下五人・小十人目付朝倉源太郎上下弐人・同目付下役赤津平蔵・目付方梅原鉄之助・同小口丑五郎外ニ目付下役小遣之者壱人、従江戸日光表江相越候ニ付、何れも兼而御達有之候御同家目付方合印鑑銘々持参、又者家来を以差出引合候処無相違ニ付相通申候、然ル処右之内浅倉源太郎罷出合印鑑并手札差出、別ニ断立候者何方へ相通候哉之旨承り候処、内御用有之日光江相越候趣申立候得共、右内御用と申子細難決日光表之風聞不穏義ニ付、右水戸殿役々彼地江相越、浪人共申諭為致帰伏候趣を以銘々合印鑑等相渡多人数江戸屋敷江召連候程も難計、仮令引合印鑑持参之上役々附添引取候段断有之候共、一旦不審之風聞有之候者ニ候得者差留置通方相伺候者当然之儀と奉存候得共、合印鑑持参有之候而者容易ニ難差留候間、万一右様之義差掛候節者如何取計候様可仕哉右之通番人共ゟ申越候、如何差図可仕哉、差掛り候儀ニ付急速御下知御座候様仕度、此段奉伺候、以上
子四月 福田所左衛門
「御附紙」 御殿印
書面伺之趣旨者、兼而水戸殿ゟ被差出候印鑑持参ニ候ハヽ通行為致可申、尤壱枚印鑑ニ而多人数通行いたし候歟、乱妨ヶ間敷儀有之候ハヽ差留置得と相糺候上、弥不審も無之候ハヽ通行可為致旨 板 周防守(※14)殿被仰渡候間、其段御関所番江可被申渡候
〆
〔訳文〕
房川渡中田御関所番人達が申し立てていることを
(福田所左衛門が替わって)申し上げます。
水戸殿(※12)領分に集っている多数の浪人達が、この程次々日光山へ立ち入っていると承っていますが、当月(四月)十一日午中刻(午後一時)頃、
水戸殿家来側用人美濃部又五郎上下六人
目付役山国兵部(※13)上下五人
小十人目付朝倉源太郎上下弐人
同目付下役赤津平蔵
目付方梅原鉄之助
同小口丑五郎外に目付下役小遣の者一人が、
江戸より日光表へ参るということで、
水戸家目付方が銘々持参した合印鑑、
あるいは家来に差し出させたものを照合したところ
問題がなかったのでお通ししました。
ところが、その中の浅倉源太郎殿が合印鑑と手札(※13)を差し出し、
(一枚の印鑑で他の者達の通行許可も求めていたので)、
その方々はどちらへ参るのか伺った処、
内々の御用で日光へ赴くと御答えになられただけで、
それが本当かどうかも分からず、況して日光表が不穏との噂もある状況です。
(美濃部様以下)水戸殿家中の皆様が日光へ参られ、
浪人共を諭し帰伏させ、
彼ら一人一人に合印鑑等を渡して江戸屋敷へ連れ帰るのかどうかも定かでありません。
たとえ(浪人共が)合印鑑を持参し
(水戸家の然るべき方々が)附き添って来られても、
すでに不審の聞こえある者達であれば差し留め置いて、
通してよいものかどうか上に伺うのが当然のことと存じます。
しかし、合印鑑を持参しておる者は勝手に差し留めるわけにいかないので、
万一上記の様な状況になった場合、如何処置したらよいか。
以上のように(関所)番人共より手紙で問い合わせて参りました。
どのように差図したらよろしいか、
急ぎ下知していただきたく伺い申上げます。以上
子四月 福田所左衛門
「御附紙」 御殿印(※15)
書面の伺いの趣旨は、
あらかじめ水戸殿より発行された印鑑を持参しておれば、
当然通行させるべきですが、
ただし一枚の印鑑で多人数を通行させてよろしいか、
という点だと理解いたします。
乱暴な振る舞いなどがあれば差し留め置いて、念を入れて糺明し、
いよいよ不審な点もなければ通行させてよいと
(老中)板倉周防守殿が御命じになられましたので、
そのように御関所番へ申し渡して下さい。
〆
〔注釈〕
※12水戸殿:徳川慶篤(1832―1868)・水戸10代藩主。9代斉昭の長男。
井伊直弼の日米修好通商条約の無勅許調印を責め登城停止。
安政の大獄で差控。桜田門外の変で登城停止。
元治元年、三港閉鎖反対の意見を奏請。
深刻な藩内抗争(天狗党×諸生党)の事態収拾に失敗し、没。(日本歴史大事典・小学館)
※13山国兵部( 1793-1865):日光浪人共の鎮撫のために派遣されたが、結局は元治元年11月1日大子を出立して京都を目指したた所謂「天狗党」の軍師となる人物。同じく天狗党の主将の一人田丸稲之右衞門は実弟。
※14手札:読み方は〔てふだ〕。士分・商人等の名刺。これのみで関所通行ができるわけではない。(掲載写真参照)。
※14手札:読み方は〔てふだ〕。士分・商人等の名刺。これのみで関所通行ができるわけではない。(掲載写真参照)。
※14板 周防守:片名字・あるいは片名。
江戸時代、文書に名字や官職名を略して記すこと。
「高木伊勢守」を「高伊勢」「高伊」とする類。あて名に用いて、相手に対する敬意を表した。
(広辞苑・日本国語大辞典・デジタル大辞泉)
板倉勝静(1823―1889)。
備中松山藩主・勝手係老中。奥羽越列藩同盟に参画、函館五稜郭に拠ったが、
自首永預。上野東照宮祠官。
※15御殿印:読み方は〔ごてんいん〕。
代官福田所左衛門が指示を仰いだのは、勘定所である。
勘定所には、江戸城内の御殿勘定所と大手門番所裏にある御番役御勘定所=下勘定所があるが、この場合は前者「御殿勘定所」の吏僚が老中板倉勝静に伺いを立てた上で、「御附紙」によって下知してきたのである。
老中―勘定奉行―勘定―代官―代官支配手附・手代―関所番士
という伺ー指示命令系統が双方通交的に組織されていたことが分かる。
という伺ー指示命令系統が双方通交的に組織されていたことが分かる。
〔右端手札の文言〕
〇 御年頭御礼 城州八幡社士惣代
参府仕候ニ付 谷村市之進〇
御届申上候 旅宿日本橋通三丁目中横町
万屋利右衛門店 |
※上記「手札」には、印影がありません。現代の名刺に当たる。
(法量6×16.5cm)
※「安井息軒名刺」も御覧下さい。
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