2016年12月23日金曜日

〔第12回 日光山輪王寺門主名代の通行〕


先ずは今後の予定をお知らせします
 1月9日(月)13:00~15:00 於栗橋公民館A102号室
2月6日(月)13:00~15:00 於栗橋公民館研修室
3月6日(月)13:00~15:00 於栗橋公民館研修室
4月3日(月)15:00~17:00 於栗橋公民館研修室
   (*4月から実施時間が変わります。御注意下さい。)


関所番士は、関所の通行人すべてを御用留に記しているわけではない。気にかかる通行人のみ記しているのであるが、その基準は判然としない。
元治元年(1864年)5月、相変わらず水戸家関連人物はwatchされている。また、今回は、日光山輪王寺門主名代の関所通行で一波乱起きる。


一小川町屯所先触写    壱冊
 〆 是ハ前有之候間爰略ス

五月四日          水戸殿家来   沼田順次郎
                      小林平之進
栃木町ゟ帰府通行目付方印鑑持参断事

同日            御同人家来   小室献吉
                       外僕壱人
右同断栃木ゟ江戸へ通例之合印ニ而断事

同六日           御同人郷士   ニ良山良吉
              小普請之由   沼田爲之丞
右栃木ゟ江戸へ通例之合印ニ而断事

五月七日          水戸殿家来   加藤権蔵
江戸小石川ゟ野州栃木迄通行目付方合印ヲ以断有之事

同日
一 日光御門主御名代世尊院杉戸出立ニ而登山通行付、同院印鑑家来差出断有之処、合印鑑未タ御達無之候間通行方差支之旨断候処、院主直々御関所罷越申談有之候得共取計兼候趣相断、無拠当本陳立戻り急飛脚相立候由、於御関所も支配向右差支相断候段為念差出左之通

日光御門主:日光山輪王寺門主のこと。明暦元(1655)年に後水尾天皇皇子尊敬法親王(日 光山門主・天台座主)に「輪王寺宮」号が、本坊光明院に輪王寺の寺号が勅許され、以後、輪王寺宮門跡が江戸上野の寛永寺で日光山以下天台宗を統括した。(「日本歴史大事典」小学館)

世尊院:覚了山清浄寺世尊院、元禄8(1695)年開創、5代将軍綱吉寵愛のお伝(瑞春院)所縁、寺領200石の朱印寺

以宿継致啓上候、然今七日日光御門主御名代之由ニ而、武州豊嶋郡千駄木世
尊院従江戸日光表通行之旨、家来川村寅吉と申者ヲ以テ同院直印紙差出候間
相改候処、右合印鑑御関所御達無之付、通方差支之旨相断候処、同院御関
所へ入来直談有之候、御朱印御証文等も所持之儀付不審無之候間、取計相
通呉候様被申談候へ共、去月十三日同御名代東叡山執当円覚院登山之振合
其御筋ゟ御達有之候合印鑑人数等迄書入候調印之書付差出引合相通候儀
付、一事之御用通行方候得、仮令御朱印持参有之候とも改方合印鑑無之候
而者難相通旨申断差戻候間、右御門主御名代と申儀付為念御届申上候
右之段為可申上如此御座候、以上
  子五月七日                  当方四人
            元〆四人殿
 〆

同日
一御目付ゟ御達書支配ゟ宿継ニ而到来如左
 
 
     御勘定奉行衆〔端裏書〕
                                                      

  一ミンイケイル筒  四拾挺    玉目九匁
  右秋元但馬守在所表差遣候付、房川渡中田御関所無相違相通候
様急速其筋へ御達可有之候、此段申達候、以上                 
五月               川村順一郎
                      設楽弾正



「御達書」が関所番士の上部機関である「支配」所より到来した。この「御達書」は、「川村順一郎」・「設楽弾正」二人の目付によって、代官支配所を管轄している「御勘定奉行衆」に宛てられたものである。この「御達書」を受け取った関所番士は、「御達書」の右端を折り込み、発信元の明示のため「御勘定奉行衆」と端裏書したのである。
秋元但馬守は、当時館林藩六万石の譜代大名。「浮浪之徒」に備えるための緊急の「四拾挺」であったと思われる。「玉目九匁」は、約34グラムもあり、「大筒」である。因みに、玉目八匁までは小筒と呼ばれた。
       

五月八日
一御門主御名代世尊院過日通行差支付、当駅止宿飛脚上野差立候処、執当役合印鑑持参之由川村寅吉罷出候間引合相違無之付、通行差支無之段申聞候、明九日早朝通行之由断有之事

同九日
  御門主御名代
    世尊院  上下拾五人
         川村寅吉断
 右登山通行其外略之事

同日
 右世尊院通行方相成御用状差出候

一当七日日光御門主御名代世尊院通行方合印鑑持参無之候付、差戻其段申上置候処、栗橋宿止宿致し急使ヲ以東叡山執当円覚院印紙取寄候由ニ而、昨八日八ツ時同院家来川村寅吉右人数書差出候付引合候処相違無之、勝手合ヲ以昨夜止宿、今九日早朝爰許出立登山致し候、此段御届申上候、以上 
 五月九日  当方四人
   元〆四人殿


元治元年5月7日、日光山輪王寺門主(門主輪王寺宮は、上野寛永寺に在居)の御名代世尊院
が、日光山へ向かう途中、栗橋関所に差し掛かった。同院の「直印紙」を差し出してきたが、肝腎の判鑑(合印鑑)が関所へ未提出であった。世尊院が直々に御朱印・御証文を差出し、通行許可を求めてきたが、許可するわけにはいかない。
 一行は7日・8日と栗橋宿に止宿し、急飛脚が東叡山執当円覚院の印紙を持参してきたのは、8日午後2時頃。間違いない印鑑であることを確認し、一行15人は59日早朝栗橋を出立した。
 この間の事情は、支配所の方へ御用状にて報告した。







2016年12月2日金曜日

〔第11回 実意のエートス〕


破けにくい和紙の強靱。水に流そうにも溶けない墨滴。-冴えないレトリックだが、今回は、番士たちの正路にして実意の精神に通じる場面を再び垣間見た思いがした。



今回から、訳文は省いて、大意と解説を加えるということにします。

同日               大炮御馬乗役   川口源次
                          楠木盛之助
江戸ゟ日光表通歩兵頭河野伊豫守殿印鑑銘々持参断出候事

五月二日             水戸殿内     石川熊武
                           外ニ家来弐人
野州栃木ゟ江戸へ通例之目付方合印持参断、植替之刀壱本持鑓壱本為断通行之事

石川熊武については、第5回注参照。
「持鑓」は、然るべき侍の外出の折、家来や小者に持たせた短い鑓のこと。

右同日
一日光山為御警衛歩兵組・大炮組・御持小筒組并役々附属之御道具御長持拾弐棹・分持壱荷、従江戸小川町屯所日光表在勤歩兵頭河野伊豫守殿旅宿迄差送候由、一昨廿九日夜先触到来付、兼問屋共ゟ差出候間合印引相違も無之無才料ニ者候得共夫々見届相通

先触写左之通り
     覚
 一御用状   弐通
 一長持    拾弐棹
    内九棹  歩兵方
     弐棹  大炮方
     壱棹  御持小筒方
 一分持    壱荷
   此人足六拾三人
日光山為御警衛歩兵組・大炮組・御持小筒組役々とも被差遣候付、右附属之御道具類明廿九日朝六ツ時江戸持出、千住宿ヲ向差立候条、渡船双方宿々申合、道中無遅滞継送於日光山光蔵坊歩兵頭河野伊豫守旅宿可差出もの也
 四月廿八日             小川町 屯所印  
                       大炮同
                   御持小筒組当番所印
       千住宿関門
       中田御関所
右両所共此印鑑引合相通候様可取計候 
                   日光道中千住宿ゟ日光山迄
                   右宿々問屋年寄中 
 〆

江戸小川町屯所より日光在勤の河野伊豫守殿旅宿まで、警衛隊の道具類等を荷物の責任者もなしに届けてほしいという先触が関所に届いたが、同じ先触は栗橋宿役人(問屋・年寄等)からもすでに差し出されており、合印確認の上荷物を見届け通行させた。

先触によれば、荷物は29日朝6時頃小川町を出発し、千住宿を目ざす。渡船については、両岸の宿でよく相談して取り計らってほしい。また、道中遲滞なきよう各宿の問屋・年寄は心がけてほしいとある。

因みに、この荷物を運ぶ63人の人足は、各宿で用意しなければならないが、各宿駅間約2里として、人足63人の役割・配置は、どのようだったか?
また、「分持」の具体像が浮かばないのであるが、ご教示願いたい。
もう一つ、「千住関門」は、どこにあったのか、またその査証は如何?

一右先触ニ而取計相通、支配御役所へ御用状差出如左之
 以宿継致啓上候、然今度小川町歩兵屯所ゟ日光表被差送候長持拾弐棹并分持壱荷、別紙写之通添触ヲ以宿継無才料ニ而差越候段、栗橋宿役人共申立候間、右添触披見之処向々連印之内屯所印鑑ハ先達御達有之候間引合候処無相違、尤在((ママ))之品柄不分明候得共、差向候御用之品々及差支候而者如何と相心得、右印鑑引合無差支通方取計仕候、尤先便御達之砌以来((ママ))右様之品々且御武器
類等被差送候節、引合可相通との御達も無御座候得共、差掛候義付此度之長持類品柄之不分明((ママ))右印鑑引合相通申候得共、右御武器も有之候而者是迄御武器通方規則相触候間、歩兵方右品柄御打合被下、万一御武器類有之候ハヽ在府歩兵頭之証文被差送候様いたし度奉存候、既先達河野伊豫守殿役々附添歩兵召連通行被致候節、銘々持参之御鉄炮ニ而も伊豫守殿ゟ証文被差出候義御座候、尤前々ゟ御武器類通方仕来ハ都御留守居衆之御断御坐候処、去亥年三月中諸家武器類通方御達以来、御武器通方も右准し非常御警衛向き旁御差立之分ハ出入共其御役筋ニ而証文被差出候得、無差支通方取計仕候義御座候間、今般被差立候長持之儀御武器類無御座候得證文も及ひ不申、乍併已後何様之品々被差立候哉、其節差支候而者如何と奉存候間、以来宿継ニ而送り候荷物有之候得、在中之品柄相分候様いたし度、此段歩兵方御達被下次便否御報被仰聞可被下候
右之段申上度如此御座候、以上 
  子五月二日                足立柔兵衛
                       冨田潤三
                       加藤摝兵
                       嶋田耕平
           渡辺幸之助殿
           小菅十一郎殿
           松澤俊助殿
           山口市郎次殿
入記


栗橋関所番士たちは、前述の荷物は、何と言っても中味が不明であり、通行許可を聊かためらったのだが、緊急の御用の品物であったら大変だと思い、屯所印鑑の引合・確認だけで通行許可した。

ただ、そのように処置せよという御達しがあったわけではない。今回の措置は緊急という一点で執った行動である。

もし荷物が武器類であるなら、以前はすべて御留守居衆の許可が必要であったが、亥年(文久3年)3月の「諸家武器類通方御達」以来、非常御警衛用の荷物は管轄当局の証文で済むことになった。

この度の長持の件も、武器類でなければ証文さえ必要ないということであるが、やはり宿継荷物の中味が分からないと、番士の仕事がやりにくいこともあり、そのことを歩兵方へ伝えて、次便で諾否をお聞かせ願いたいと支配所の上司に頼んだのである。

職務の全うのためには、上からの指示・規則に任せるだけではよしとせず、さらに現場の仕事の徹底のために策を尽くすのである。こういう気質・精神が、日本全国津々浦々において涵養され、それはまた時代を横断して培養されてきたのだと思う。筆者は、これを「実意のエートス」と呼んでみたい。