大平山は、下野国(現栃木県)南部の標高300m余の丘陵地帯といっていい所であり、旧大平町、現栃木市に属している。春は観桜、夏は紫陽花、秋は葡萄狩り、ハイキングにはもってこいの所である。謙信平からはスカイツリーも眺望できるそうです(この目ではまだ見た事がありません。)。団子と卵焼きと蕎麦が名物です。 さて、今からたった153年前の夏(因みに、この年に生まれたビッグネームは、マックス・ウェーバー、ロートレック、リヒャルト・シュトラウス、ルイ・リュミエール、クローデル、二葉亭四迷、津田梅子、田中義一など)、この大平山一帯に『浮浪之徒』が集屯したのである。今回は、現代語訳していきます。
大平山神社、ここも『浮浪之徒』の拠点となった。 |
同日
一御用状到来左之通り
急宿継を以致啓上候、然者浮浪之徒取締方儀ニ付御書付出候間、写壱冊差進申候、委細御触面之趣御承知、此上浪人躰之者御関所通掛り候節、改方一ト際厳重御取締、右ニ付猶取締方御見込も有之候ハヽ御申越可被成候、且別段御見込も無之候ハヽ其段も御申越有之候様可申進旨被仰聞候間、此段御承知両様共否急速御申越有之候様存候
右之段可得御意、如此御坐候、以上
子五月廿九日 山口市郎次
松澤俊助
小菅十一郎
渡辺幸之助
嶋田耕平殿
加藤摝兵殿
冨田潤三殿
足立柔兵衛殿
同日(5月晦日)
御用状が到来した、左の通りである。
急ぎの宿継ぎをもって御手紙を差し上げます。
さて、『浮浪之徒』の取り締まり方について、(御老中から)御書付が出されておりますので、その写しを一冊差し上げます。御書付の内容の詳細について御承知なされ、以後浪人躰の者が御関所を通り掛かる時は、一段と厳重に改め取り締まってください。
また取り締まり方について他にお考えがあれば御手紙でお知らせ下さい。また特になくてもその旨も御手紙で御知らせくださるよう、(上から)指示が出ておりますので、その旨御承知なされ、両様とも急いで御手紙でお知らせ下さい。
右の事について(あなたがたの)了解を是非得たく、このように御用状を認めました。以上
子五月廿九日 山口市郎次
松澤俊助
小菅十一郎
渡辺幸之助
嶋田耕平殿
加藤摝兵殿
加藤摝兵殿
冨田潤三殿
足立柔兵衛殿
入記
一浮浪之徒御取締方ニ付御書付写壱冊
『浮浪之徒』の取締に付、(御老中の)御書付写一冊があるのでここに記す.
〆
被 仰出候御書付写如左
大目付江
浮浪之徒取締ニ付而者追々相触候趣も有之候処、先達而以来野州大平山・常州筑波等ニ多人数集屯罷在所々横行いたし、右者水戸殿御家来並御領分之者共重ニ而既ニ贈大納言殿之遺志を継候抔と申触候由ニ相聞難捨置筋ニ候得共、水戸殿おゐて御手限ニ而御取鎮被成度趣被仰立も有之候間、御任せ被置候処、追々増長此程ニ至而者右場所而已ニも不罷在、異形之躰いたし弐三拾人位宛群り、歩行中ニ者無宿・悪党ものも相加り金銭押借等致し百姓共難儀不少、
(老中より)出されました御書付の写は左の通りです
大目付へ
『浮浪之徒』の取り締まりについては、引き続き御触れも出されていきますが、先日来、下野国の大平山・常陸国の筑波などに多くの人数が屯して、所々横行しています。
彼らは水戸殿(徳川慶篤)の御家来と御領分の者どもが主であり、以前から贈大納言殿
(徳川斉昭)の遺志を継いでいるなどと吹聴している噂が聞こえてきますので、捨て置く
事は出来ないことではございますが、水戸殿が御自分の手で鎮圧なされたいとおっしゃっ
ておられることでもあり、御任せしていたのですが、
彼らはだんだん増長し、最近では(大平山や筑波など)ばかりか他の場所においても怪し
い姿をして、二十~三十人位づつ群れをなし、歩行衆の中には無宿者や悪党も加わ
り、金銭を無理矢理借りるなど百姓どもは大変難儀しています。
(徳川斉昭)の遺志を継いでいるなどと吹聴している噂が聞こえてきますので、捨て置く
事は出来ないことではございますが、水戸殿が御自分の手で鎮圧なされたいとおっしゃっ
ておられることでもあり、御任せしていたのですが、
彼らはだんだん増長し、最近では(大平山や筑波など)ばかりか他の場所においても怪し
い姿をして、二十~三十人位づつ群れをなし、歩行衆の中には無宿者や悪党も加わ
り、金銭を無理矢理借りるなど百姓どもは大変難儀しています。
依之大平山・ 筑波等ニ罷在候もの共速ニ水戸殿御領内江引取候様可被成、其余異形之躰ニ而徘徊いたし軍用金抔と唱押而金子為差出候類者勿論之儀、都而旧臘相触候趣ヲ以往来相改、浪人躰ニ而怪敷見受候分者、仮令水戸殿御名目相唱候とも召捕、手向等いたし候類者切殺候とも打殺候とも可致旨厳敷相触候段、水戸殿江相達置候間、右之趣相心得、銘々領分・知行限家来差出時々為見廻、万一不法者等有之候ハヽ搦捕又者討取、多人数之節ハ隣領申合相互ニ助合、差懸り候分者村々之もの共申合搦取候様ニもいたし、尤手余候ハヽ是又打殺候とも不苦、
ですから大平山や筑波などにいる者どもを速やかに水戸殿の御領内へ引き取りなさるべきであります。
彼らは甚だしく異様な姿で徘徊し、軍用金などと唱えては金子を差し出させなどしていますが、そういう類は勿論、すべて昨年十二月の御触れの趣旨に沿って往来改めをし、浪人風で怪しい者は、たとえ水戸殿の御名前を唱えようとも召し捕り、手向いなどするような者は切り殺しも打ち殺しもする旨厳命した事を水戸殿へもお知らせしておきました。
そのことを心得て、おのおの支配のの領分・知行に家来を派遣し、時々見廻らせ、万一不法者などがあれば、搦め捕りまたは討ち取り、(不法者等が)多人数の場合は隣領と申し合わせ協力して当たり、急場においては当面の村々の者共が申し合わせて搦め捕るようにもいたし、(それが難しいなら)打ち殺しても構わない。
御料・寺社并小給所等ニ而家来詰合無之分者、最寄領主・地頭ニ而別而心附注進次第早速人数差出、浮浪之もの之ため村々難儀不致様厚世話いたし申へく候、但関東取締出役廻村之節ハ、相互ニ打合候様可致候、右之趣関八州并越後国・信濃国領分知行有之面々江不洩様可被相触候
右之通相触候間、可被得其意候
五月
(幕府の)天領や寺社領、また(旗本)知行地など勤仕の家来がいない所では、最寄りの大名、旗本が特に警戒し、要請があり次第すぐに人員を派遣し、浮浪の者達のせいで村々が難儀しないよう懇切に面倒をみるべきである。
ただし、関東取締出役達が廻村の際には、両者でよく打合せをするように。以上の事に付、関八州ならびに越後国・信濃国の大名、旗本の面々へ洩れなく命令するものである。
右の通り御命令があったので、皆様御了解なさるように。
五月
〆
子六月二日
一水戸殿家来*田丸稲之右衞門其外浮浪之徒凡四百人余、是迄野州大平山*蓮祥院并寺中多門院寺内町家八軒江止宿罷在候処、晦日夜右場所出立、栃木町へ泊り、昨朔日同所出立、小山泊り其先々者水戸江相越候哉筑波山江相越候哉難分趣、蓮祥院家来出府ニ付候事
子六月二日
一水戸殿(徳川慶篤)の家来田丸稲之右衞門その外浮浪の徒凡
そ四百人余が、今まで下野国大平山の蓮祥院や寺中の多門院、また寺内の町家八軒に止宿しておりましたが、五月晦日(三十日)夜、其所を出て栃木町に宿泊、昨朔日(一日)出立、小山へ至り宿泊、その先は水戸へ向かったか、筑波山へ向かったかは分からないと蓮祥院の家来が(江戸)出府の通りがけに(栗橋関所番士)に話してくれました。
ところで、稲之右衞門が敦賀で斬刑に処されたのは、慶応元(1865)年2月4日。母の田丸以保子は慶応元年(1865年)2月9日、獄死。享年82。靖国神社合祀。妻の田丸奈津は、慶応元年(1865年)3月25日に斬首。享年58。靖国神社合祀。長女の田丸まつは、慶応元年(1865年)3月25日に斬首。享年19。靖国神社合祀。 次女の田丸(福地)弥津は、慶応元年(1865年)5月20日、水戸で獄死。享年17。靖国神社合祀。田丸うめは、慶応元年(1865年)3月25日に斬首。享年10。靖国神社合祀。長男の田丸誠次郎は、慶応元年(1865年)1月2日、水戸の獄で獄死(刑死とも)。享年2。靖国神社合祀。(ウィキペディア)
*蓮祥院:現在は紫陽花坂の上り口に移築されて存在するが、この頃は大平山山上にあった。
同日
一前書御用答差出如左之
宿継之御用状致拝見候、然者浮浪之徒取締方之儀ニ付被仰出書御写壱冊被成御達、落手承知致し候、猶一ト際厳重改方可仕旨被仰下一同承知仕候、尤御関所御締向見込之筋有之候ハヽ可申上旨被仰聞、是又承知仕候、則別紙伺書壱通差上候間、宜敷被仰上可被下候外御用筋者文略ス
右之段御請旁如斯御座候、以上
子六月二日 当方四人印
元〆四人殿
入記
一伺書 壱冊
同日
一前書に対する御用答は左のごとし
宿継ぎの御用状を拝見致しました。さて『浮浪之徒』の取り締まり方につい
て(大目付へ)下されました御書付の御写一冊頂戴し、承知致しました。さ
らに一層厳重に改めるべき事ご命令下され、番士一同承知致しました。
もっとも御関所の取り締まり向きについて、(われら番士の)考えなども申上
げてよい旨おっしゃっていただき、それも又承知致しました。そこで別紙の
伺書一通を差し上げますので、よろしく上の方へ申し上げて下さい。
外の御用筋については文を省略する
右の件に付、いろいろ承知いたしました。
子六月二日 当方四人印
元〆四人殿
入記
一伺書 壱冊
〆
房川渡中田御関所御取締向ニ付奉伺候覚
房川渡中田御関所の御取締向に付伺い申上げます覚
一御関所前後川筋村々*耕作船場取締方之儀先般相伺候処、私共折々見廻若如何之筋も有之候ハヽ、其段可申立旨被仰聞候ニ付、折々廻村仕、其時々村役人共江旅人者勿論隣村之者たり共越渡申間敷旨急度申付候得共、場所ニ寄旅人躰之者多分ニ越渡、其上武家等も通行為致候趣風聞有之候間、持場之内万一浮浪之徒横行いたし候而者、取締方不行届之筋ニ至リ候間、追々右渡場探鑿仕候処、
一御関所前後の川筋の村々の耕作船場の取り締まり方について、先般御伺い申
上げましたところ、私共(番士達)がその都度見廻り、何か問題があればそ
のことを申し立てるようご命令なされましたので、時々村々を廻り、度々村
役人共に対して、旅人は勿論、隣村の者どもであっても(川を)渡らせては
ならない事を厳しく申し付けましたが、
場所によっては旅人風の者を多数(川を)渡らせ、その上武家なども(川
を)通行させているという噂もありますので、(私共の)持ち場のうちを万一
『浮浪之徒』が横行すれば、取締方不行届の趣にもなりますので、引き続き
(耕作)渡場を穿鑿しておりましたところ、
全双方川向ニ耕作仕附置候場所ニ無之候間、当分之内一切越渡不相成旨申渡、差留候様可仕哉と奉存候得共、御支配所之外他領も有之儀ニ付取計方如何可仕哉
この辺の川筋の此岸・対岸双方の村々で川向かいに耕作仕付している村は一
つもないので、当分の間一切(川を)渡すことを禁ずる事を申し渡し、(耕
作)船場を差し留めしたらどうかと思いますが、(代官)支配の天領ばかりで
はなく、(関所管轄外の)他領もありますので、如何いたしたら宜しいでしょ
うか。
*耕作渡船場:「前屋の渡」(「新川渡」)はその一つ(高塚伊和夫氏説)。栗橋関所周辺の、他の「耕作渡船場」の調査必要あり。
一往来改方之儀者川陸共同様之儀ニ而、兼而被仰出候通都而合印鑑ヲ以相通、夜中ハ一切通不申候得共、此程野州大平山江集隊致し候水戸殿御家来、今般被仰出之趣ニ而者定而御領分江引取可申、左候而ハ浮浪之残党所々横行可致、就而ハ大平山之儀者御関所川上ニ而道法凡七里位相隔船路便地ニ付、川筋耕作渡船場等厳重ニ仕候間、夜中窃船ニ而乗下御府内江立入候程も難計候間、此節柄為御締夜中見張等可仕処、
一(われら関所番士の)往来改めは、以前触れられた通り川も陸も同様に、すべて合印鑑をもって関所を通し、夜中は一切通しておりませんでした。
しかしこの程、下野国大平山へ集隊の水戸家御家来は、今般の命令の趣では、たしかに(水戸殿)御領分へ引き取られるはずではありますが、その際浮浪の残党が、所々横行することでしょう。
ついては大平山は(われらの)御関所からおよそ七里程川上にあり、船路が便利な地で、川筋に当たる耕作船場などは厳重に取り締まっていますが、夜中窃かに船で下り、江戸に立ち入ることも企てかねず、この時節柄、取締のため夜中も御関所囲内を見張るべきところではありますが、
前々ゟ夜中張番仕候儀無御座、殊ニ人少之私共昼夜不寝番等相勤兼、尤旧臘改方被仰出候以来者、御囲内馬船・茶船番屋江夜中も水主共両人ツヽ為相詰、川中心付候様申付、私共ニ而も泊加番壱人相増油断無之様情々仕候得共、不寐番之儀者別而油・蝋燭等多分ニ入用相懸り候義ニ付、自分入用を以難相勤且当節土井大炊頭殿江勤番被仰付置家来多人数詰合罷在候得共、右者合印鑑持参無之者押而相通候節差留方のミニ相心得罷在候間、夜中見張り等之御警衛ニ者相立不申候間、*差向非常之場合ニ付為御締私共ニ而不寝番等相勤候筋ニ可有之候得共、
以前から夜中張番はしたことがなく、殊に人員の少ない私共は、昼夜の不寝番
は勤め兼ねるのであります。
尤も、昨十二月に(御関所の)改め方が触れ出されてからは、夜中も御関所御
囲内の馬船・茶船番屋へ水主二人宛詰めさせ、川中を監視する様申し付けてい
ます。
私共としましても泊まりの加番一人増員し油断なく務めてはいますが、不寝番
はとりわけ油・蝋燭代が懸かり、自腹を切っては務めがたいのです。また最
近、土井大炊頭殿に(御関所)勤番が仰せ付けられ、多くの御家来衆が御関所
に詰めておりますが、それは合印鑑を持たぬ者が無理矢理通ろうとした時それ
を止めるための備であって、夜中見張り等の警衛はしないのです。急場非常の
場合には、取締のため私共が不寝番等を務めるのが筋ではありますが、
*差向(サシムキ):差しあたり・急の・当面の・取りあえず(日国大)
人少之儀ニ付兼而書上置候御関所ニ付非常駈着之者栗橋宿内*船戸町ニ而凡七拾人余も有之候間、毎夜両三人ツヽ為相詰 御囲内船番屋ニおゐて見張為致、私共代ル々見廻り候様可仕哉、然ル上ハ 油・蝋燭并見張ニ差出候者共江夜食料御手当御入用成被下度、右被 仰付候ハヽ、昼夜聊不取締之儀有御座間敷と奉存候
右之通伺奉候間、急速御差図被成下候様仕度此段伺奉候、以上
子六月二日 足立柔兵衛印
冨田潤三〃
加藤摝兵〃
嶋田耕平〃
福田所左衛門殿
御役所
〆
(御関所の)人員の不足については、以前から当方より上申させていただいておりますが、臨時に駈け付けることができる者が、栗橋宿内船戸町に凡そ七〇人余りいますので、毎夜二,三人宛船番屋に詰め見張りさせ、そして私共が代わる代わり見廻るのがよいのでしょうか。
そうでありますなら、油・蝋燭代と見張りの者どもの夜食代を調えていただきたいのです。以上の事を仰せ付けていただけますなら、昼夜共少しも不取締にはならないと存じます。
右之通りお伺い致します。急ぎ御差し図いただきたく、このようにお伺い致します。
子六月二日 足立柔兵衛印
冨田潤三〃
加藤摝兵〃
嶋田耕平〃
福田所左衛門殿
御役所
〆
*船戸町:「明治時期から昭和初期までの舟戸町の家並み」(平成1年~2年
新井軍治調査)を参照(高塚伊和夫氏)
堤防(現国道4号)の上半分は、堤防の「外側」(川水側)=堤外、堤防の下側が「提内」。新井軍治氏作成のものを、弟子の高塚伊和夫氏に提供していただいた。この丁寧・懇切さを久喜古文書研究会も大切に受け継ぎたい。 |
子六月三日
水戸殿目付方之由
益子金次郎
猿田泰介
従江戸野州栃木迄相通、尤合印鑑差出引合相違無之、右者昨夜八ツ時頃御関所へ差懸り急用ニ而罷越候趣申立通方談有之候得共、不相成趣申聞候処立戻候、当駅江止宿、今朝通行也右同日暮六ツ時分前書金次郎・泰介栃木迄罷越候処、早駕籠ニ而江戸表江立戻り候趣猶合印ヲ以断有之候間、子細承り候処相咄シ不申事
子六月三日
水戸殿目付方之由
益子金次郎
猿田泰介
江戸より野州栃木まで通る、尤も合印鑑を差し出し引き合わせたところ、間違いありません。右の者は昨夜八ツ時(午前二時頃)御関所に差し掛かり、急用があり通してくれる様お話がありましたが、(夜中は通行出来ない旨申し聞かせたところ立ち戻りました。栗橋宿に宿を取り、今朝通っていきました。
同日暮六ツ頃(午後六時頃)、前記金次郎・泰介が栃木まで行き、早駕籠にて江戸へ立ち戻る様子、やはり合印を以て手続きしてきましたので、(その際)詳しい様子を訊きましたが話してはくれませんでした。
同四日
水戸殿小従人目付
杉浦辰蔵
同 小野崎藤兵衛
目付方
武田儀三郎
樫村定之介
外鑓持弐人
右者従栃木町帰府目付方合印紙壱枚ツヽ差出右儀三郎断候間、大平山之様子承り候処、先不残引払ニ相成ニ付用済帰府之由、度々通行世話ニ相成候趣断、同役江迄之伝言致し相通事
同四日
水戸殿小従人目付 杉浦辰蔵
同 小野崎藤兵衛
目付方
武田儀三郎
樫村定之介
外鑓持弐人
右は栃木町より江戸へ帰る目付方で、合印紙を一枚宛差し出した。右の儀三郎が手続き中に、大平山の様子を伺ったところ、(浮浪の徒は)残らず引き払うようなので、(水戸殿目付方は)用済みとなり江戸へ帰るということ、度々の通行、お世話になったとお話しになり、また(我々関所番士の)同役にまでその旨伝えてくれるよう話されて通っていった。
一夜中*鳥居丹波守殿家来角野治兵衛外中間壱人、壬生城内ゟ江戸屋敷迄通合印鑑并夜通証文差出改無相違ニ付通、急用之趣ニ付子細承り候処、此程太平山を引払候浮浪之徒結城町迄引取同所ニ而何歟間違筋有之、猶又小山宿へ引戻し夫ゟ壬生城下近辺下河岸と申処江大勢立入、丹波守殿江申入候者此度*橫浜表江打入候もの共ニ有之候得共、人数少々不足ニ付加勢申請度旨、若承引無之ニおゐてハ争戦之上人数借請候間挨拶承度と御懸合ニ付、壬生家ニ而も無拠場合ニ付仮令及闘戦候とも右様之加勢差出候儀者無用之段相答、右下河岸向へ人数并大炮等差出厳重ニ相固居候ニ付、江戸屋敷江届として出府之旨被申聞候事、尤浮浪之徒何れも*着込鉢巻陣羽織着用*陣太鼓・螺等相用繰出し右場所へ相詰候趣也
一夜中、鳥居丹波守殿家来の角野治兵衛ほか中間一人が、壬生城内より江戸屋敷まで通る合せ印鑑と夜通証文を差し出し、改めたところ間違いなかったので通した。
急用のようなので子細を伺ったところ、この程太平山を引き払った『浮浪之徒』が結城町まで退き去ったが、そこで何か誤算があったのか、再び小山宿へ引き返し、壬生城下近辺の下河岸というところへ大勢で立ち入り、丹波守殿へ申し入れたことには、
(われらは)これから橫浜表へ攻め込まんとする者であるが、少々人数不足につき加勢を御願いしたい、もしお聞き入れいただけない場合は、戦をしてでも人員を手に入れますので、お答えを伺いたいと談判に及んだ。
壬生家では(加勢など)謂われのない事と考え、たとえ闘戦に及ぼうとも、加勢の差し出しはできないと答え、下河岸向へ兵員と大炮等を備え厳重に警備していた。(そのことを)(壬生家の)江戸屋敷へ報告するのだと伺った。
一方、『浮浪之徒』も皆、着込・鉢巻・陣羽織を着用し、陣太鼓・螺等繰り出して、(下河岸辺り)に押し掛けているようすである。
*鳥居丹波守:壬生藩三万石藩主忠文。譜代。正徳2年、近江から干瓢の栽培
を取り入れ、現在は干瓢国内生産の8割を占める。幕末期、壬生藩では尊
皇攘夷をめぐって争いが絶えず、元治元年に水戸藩で天狗党の乱が起こる
と、保守派が力を盛り返して勤王派を退けるなど、藩内は二分して大混乱
した。(ウィキペディア)
*橫浜鎖港:孝明天皇は熱心な攘夷論者であり、国政の諮問にあたる参預会議でも通商条約の破棄(破約攘夷)・海外貿易を許可した諸港の閉鎖(鎖港)が議題となった。しかし参預諸侯は元来開国的な考えを持っており、そもそも攘夷は不可能であることを認識していたため、鎖港には反対であり、かえって孝明天皇の失望を買う。
一方、元々諸外国と条約を締結して開国を行った当事者である幕府も攘夷には反対していたが、前年の家茂上洛の際、孝明天皇から攘夷実行を約束させられており、すでに文久3年12月に不可能を承知の上で横浜鎖港の交渉のため、フランスへ外国奉行池田長発を全権とする交渉団を派遣していた。
参預会議においても、当初横浜鎖港に難色を示していたはずの徳川慶喜が、薩摩藩の擡頭を警戒し、島津久光の主張には同調できないとして、ことさら横浜鎖港の実行を主張することになる。2月15日に行われた参預会議では、久光と慶喜がこの問題で激しく衝突した。
長州問題でもはかばかしい結果が出ない上、横浜鎖港問題では参預間とくに徳川慶喜と島津久光との対立が激化したため、参預会議体制は早くも行き詰まった。
この成り行きを懸念した中川宮が、2月16日参預諸侯を自邸に招いて酒席を設けたが、泥酔した徳川慶喜が中川宮に対し島津久光・松平慶永・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴論を吐いたため、機嫌を損ねた久光は完全に参預会議を見限り、幕府への協調姿勢を諦める。
こうして、ほとんど何の実績もあげられぬまま、参預会議は瓦解した。2月25日いち早く山内豊信が京都を退去し、3月9日には慶喜が参預を辞職。続いて他の参預も相次いで辞任した。(ウィキペディア)
*着込:上着の下に腹巻、鎧、鎖帷子などを重ねて着ること。(日国大)
*螺:法螺。法螺貝の大きな貝殻に細工して吹き鳴らす様にしたもの。軍陣の
進退の合図に用いた。(日国大)