2017年4月2日日曜日

〔第16回 元治元年五月廿三日~五月晦日の記事〕


1864年(元治元年)五月下旬の栗橋関所の通行状況を見てみよう。
評定所留役一行が、羽州置賜郡(米沢藩)の百姓騒動の吟味のため関所を通行した。また、水戸殿重臣で天狗党荷担の罪で後刑死する者、天狗党に荷担して戦死する者たちが通行する。日光には、大量の「合薬」「雷粉管」「竿鉛」が運ばれていく。


 〆
 五月廿三日
        水戸殿郷士之由
            ニ良山両吉
従栃木江戸へ通目付方合印出ス
同廿五日
一*刻付御用状到来左之通り
 以宿継致啓上候、然*評定所留役斎藤辰吉殿外壱人、同*書役壱人、同*当分出役壱人、*御取締出役壱人明廿五日江戸出立、羽州表被相越候付、*木村甲斐守殿印鑑壱枚差進候間、留役衆*置印紙、其外右甲斐守殿印鑑を以御関所通方差支なく御取計有之候様存候、尤御取締出役之儀御達有之候通御取計可被成候  外印鑑御達之分ハ文略ス
右之段可得御意如斯御坐候、以上
 子五月廿四日   山口市郎次
          松澤俊助
          小菅十一郎
           渡辺幸之助
嶋田耕平殿
加藤摝兵殿
冨田潤三殿
足立柔兵衛殿

〇刻付御用状が届いた。評定所留役一行と関東取締出役一行が、羽州に向かい関所を通行するから、以前指示しておいた通り取り計らうようにとの内容だった。

*刻付:記した時刻を明示したり、到着時刻を指定した書状
*評定所留役:勘定奉行支配の勘定所より出向した評定所書記官。外にも寺社奉行・町奉行より出向した者たちで構成され、評定所の実質的審議を担当した。貞享2年に設置、5~8名の月番制、15020人扶持で布衣以下・御目見以上。幕府の法律事務官僚。
*書役:評定所書役
*当分出役:評定所当分出役。「当分」は臨時の、という程の意味。
*御取締出役:関東取締出役(八州廻り)のこと
*木村甲斐守:新規の関東郡代で岩鼻陣屋にいた。関東取締出役を支配していた。
*置印紙:どなたかご教示下さい。

 〆
右返翰一通請取付略之事
 〆
五月廿五日
    歩兵差図役下役並
          大塩瀧之丞
          外歩兵組壱人
          家来壱人
小川町ゟ日光御警衛為御用日光山通合印持参差出長持弐棹雑具ニ而武器無之段瀧之丞断ニ而通ス事

〇日光警衛のための長持・雑具を通行させた。

同廿六日    水戸殿家来
           *美濃部又五郎
            上下6人
        同奥祐筆
          斎藤市右衞門
            上下3人
江戸ゟ野州栃木迄罷越候由目付方合印鑑又五郎分大山栄蔵断且又五郎 公儀御目見以上之由断り置則右之手札差出駕籠ニ而通市右衞門印鑑差出いつれも引合相違無之候事

 右同断水戸殿家来無役之由
           中山三之助
            家来壱人
 右野州栃木ゟ小石川迄通例之目付方合印引合無相違付通ス

*美濃部又五郎:水戸藩側用人。天狗党の乱では、田丸稲之右衞門らの説得を図るが、水戸藩において諸生党が実権を握ると捕らえられ、1865年(慶応元年)12月刑死した。公儀御目見以上・乗駕通行・・供連上下6人である。

 五月廿七日
一先達御達有之候評定所留役其外共、*羽州置賜郡村々之者共騒立候一件為吟味彼地罷り越候、左之通り
  評定所留役     斎藤辰吉殿
             *上下八人
  右同        山本長次郎殿
             上下七人
  評定所書役     磯録三郎    
             上下弐人
  同出役       阿部剛蔵
             上下弐人
  関東御取締出役   渋谷鷲郎
             上下五人
先達御達之通、留役置印紙、書役甲斐守殿印鑑、御取締ハ*御證文見請相通候事
右羽州置賜郡村々ニ而四万石上杉弾正大弼殿御預所相成居候処、先般公辺ゟ自領同様取締方可取計旨被仰渡有之候付村々取締方いたし候処、百姓とも三・四百人も騒立不法之所業致し候趣、米沢侯ゟ公辺申立為取締出張相成候由承り候事

*羽州置賜郡村々之者共騒立候一件
 置賜郡屋代郷(現在の山形県東置賜郡高畠町)は、米沢藩預所あるいは天童藩領と変遷、1848年(嘉永元年)には幕府天領・米沢藩預地となっていたが、1863年(文久3年)には藩領に準じた預地となり、屋代郷の村々は米沢藩領復活反対嘆願書を提出、「騒動」となった。時の米沢藩主第12代斉憲は、文久3年佐幕派として京都警衛を果たし、その功績により慶応2年屋代郷37248石を幕府より与えられた。

*御証文:関東取締出役は、勘定支配・関東郡代の配下にあったが、彼らの仕事の都合上、関所通行は判鑑引合手続きではなく、「証文」提示で済ますことが出来た。

*上下八(七)人:評定所留役の供連れは七・八人だ。管見の限り、弘前藩元禄期の共連れは200石クラスの物頭が同人数だったと思う。

右同日     水戸殿家来馬廻り役之由
          *林五郎三郎
           上下拾三人
野州栃木ゟ帰府之由、清水大八と申者目付方合印人数書入候を差出断候付、五郎三郎外役名相尋候処、五郎三郎附属ニ而別段役名無之由申立候事

*林五郎三郎:水戸藩士。弘道館舎長。天狗党の乱に呼応し潮来勢を率いて松平頼徳軍(「大発勢」)を支援。1864年(元治元年)9月19日戦死。「上下拾三人」とは、規定の供連れではなく部下や農兵も一緒であったろう。

松平頼徳の辞世を紹介しておく。無念さが素直に滲む。そのような人柄であったのだろう。
   思ひきや野田の案山子の竹の弓 引きも放たで朽ち果てんとは

五月廿八日
         水戸殿目付方下役
             山田幹之助
             江尻閑蔵
    江戸ゟ野州栃木迄通合印差出

〃 廿九日
一支配御役所ゟ御用状到来如左
以宿継致啓上候、然日光表炮薬御差立相成候付、別紙之通其筋ゟ御達有之候間、則写壱冊差進申候、御落手、委細ニ而御承知可然御取計可被成候
右可得御意旨如斯御坐候、以上
 子五月廿八日      山口市郎次
             松澤俊助
             小菅十一郎
             渡辺幸之助
      当方四人宛
別紙御達左之通り
(端裏書)「御勘定奉行衆      *小倉但馬守」

一*合薬七拾九貫弐百六拾目
   此七箇
一雷粉管三万八千四拾六粒
   此壱箇
一竿鉛七拾六貫九拾四匁四歩
   此九箇
右之通*井上河内守殿宿継御證文を以来晦日日光表差立候付、房川渡中田御関所無滞相通候様、掛り御代官御達可有之候様致度此段及御達候
  子五月
〇江戸の勘定所から「合薬」・「雷粉管」・「竿鉛」を老中の証文で、日光へ宿継運搬するのである。

*小倉但馬守:目付を経て日光奉行となる。日光奉行は、老中管轄下にあり、東照宮守衛・日光町行政、上野国・下野国の司法を担当、役高2000石役料500俵。
*井上河内守:浜松藩主。従四位下・侍従・老中
*「合薬」等の運搬物の総重量を計算してみたい。
 合薬―79.260×3.75297.225kg÷7=42.46kg(1箇当) 
雷粉管―1箇の重さが分からない。「此壱箇」とあるから、無理矢理約1gにして、38.046kg(?)としたが……ご教示願いたい。
 竿鉛―76.0944×3.75285.354kg÷9=31.7kg(1箇当)
 
さて、馬何頭と人夫何人でこれらを宿継運搬したのだろうか?
ご教示願いたい。

 〆
右返翰文略ス、右之品六月朔日相通

五月晦日
       水戸殿目付方下役
             山田幹之助
             江尻閑蔵

 従栃木帰府之由、例之合印ニ而断有之事










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