2017年11月6日月曜日

〔第23回 「生捕」・「打留」・「召捕」・「乱妨」・「押借」〕


天狗党のゲリラ活動、そして農兵を主力とした代官鎮圧軍の戦闘の記述が生々しい。村々の百姓達も、同調-反発の深刻な対立・抗争を繰り返し、今でも各所に「天狗塚」なる死骸埋葬地が存在するそうだ。どの時代においても、戦いは、現場をクローズアップすればするほど、複雑怪奇な酸鼻的様相を呈する。以下の記述は、大変リアルな記述で、想像力を刺激するだろう。

一昨八日夜五時、御代官山内源七郎殿家来海老沢善介・岡田定吉、源七郎殿合印鑑弐枚持参差出断候付子細相尋候処、此度浮浪之徒御同人支配所野州竹下村相集、農家立廻り軍用金と唱押借等又乱妨致シ凡人数三拾人位之由、右竹下村山内源七郎殿手附・手代陣屋附農兵弐百人計召連、昨七日源七郎殿具足着用出馬之上右人数之内三人生捕、三人鉄炮ニ而打留、右真岡陣屋詰手代三澤升三郎・手付相澤傳九郎ゟ江戸小川町役所詰秋山鈴之助・川村良作宛之書面見届合印鑑等も相達無之、非常之義付以来之例ニ者不相成候趣申聞取計相通候、尤右戸田越前守殿ゟ加勢三百人右竹下村出張致候得共御用不相立候趣、真岡陣屋江者笠間牧野越中守殿ゟ人数五拾人相詰并宇部㠶之助殿ゟ人数六・七人詰居候由、浮浪之者此節常州北条六百人、同筑波辺五百人屯致し候由、真岡陣屋ゟ竹下村迄道四里位有之、且支配所村方名主父子ニ而浪人同意致し如何之義有之候処、相顕父逃去伜御加勢申上度と申陣屋に顕出候処、源七郎殿手ニ而召捕相成候由也

夜五時:午後8時頃
山内源七郎:真岡8万石支配の幕府代官、慶応四(1868)年五月十七日佐賀兵が真岡陣屋焼打ち、源七郎は手代達とともに獄門に処される。
竹下村:明治二十二(1889)年、市町村制施行により栃木県芳賀郡清原村となる。昭和二十九(1954)年宇都宮市に編入。現在宇都宮市竹下町。
農兵:水戸藩・長州藩の一時的設置がきっかけとなり、幕府の文久改革の一環として代官支配地や水戸藩などで積極的に募集し動員された。費用は豪農層の献金によって賄われたようで、主に村役人等が組織して幕府代官や藩によって動員された。
戸田越前守:戸田忠恕(タダユキ)(1847~1868)、宇都宮藩七万七千石第六代藩主。寺社奉行・奏者番。天狗党の乱の際、筑波山に出陣したが、幕府の命令を待たず帰陣。戊辰戦争では新政府軍。
笠間牧野越中守:笠間八万石第八代藩主牧野貞直(サダナオ)(1831~1887)寺社奉行・奏者番・大坂城代。天狗党鎮圧の幕府軍として戦う。
宇部㠶之助:「宇部」か「宇都」か判読しかねる。
北条:茨城県つくば市北条(ホウジョウ)。多氣山南麓。


〇真岡陣屋より江戸への書面を特別扱いで関所を通している。その書面によると、戸田宇都宮藩軍三百人は竹下村に出陣したが、戦闘の意欲がないとある。






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