2018年2月5日月曜日

〔第26回 八月十八日の政変後、長州浪士も北関東に屯っているようだ〕

夜の川中、作場船の取締をいっそう厳重にした。また、「浮浪之徒」の鎮圧軍が、関所を通行し北上する。関所には非常の備えのために、古河藩士10名が勤番、中田には「援兵」が詰める。

さて、今回は筆者の出身地、青森県五所川原市の「立佞武多の館」の画像を愉しんで戴きます。
過日(1月24・25日)、「歴史的」(?)ともいわれた大地吹雪の中に躍り込み、見事な佞武多を間近に見学、撮影してきました。








毎年8月4日から8月8日迄、街に繰り出します。ただ、この館の4Fの撮影スポットから見る圧倒的でしかも繊細な色彩感と造形には、息をのむ程素晴らしいものがあります。是非一度、五所川原に来て、「化人(バケト)」に化粧・扮装して御参加下さい。また、同館1Fに設置されている版画(旧五所川原市立南小学校の生徒作のものを元にした市民有志制作の陶版壁画)がまた、素晴らしい。地域を開拓し、岩木川氾濫や度重なる大飢饉の克服に苦闘した人々が活写された、五所川原の歴史絵巻は圧巻である。次回には、その画像を貼り付けますので、愉しみにして下さい。

  〆
六月十二日
一支配御役所へ御用答並伺書差出分左之通り
当八日十日附ニ而両度御差立宿継之御用状相達致拝見候、然者川中見張不寝番等之儀、御関所非常駈着之者江申付、私共見廻為相勤候様先便申立候処、右取締方私共ニ而取計、尤御入用之義急速御沙汰御坐候様被仰立候趣被仰下承知仕候

〇川の不寝番を「御関所非常駈着之者」にさせ、自分たち番士達が取締のため
見廻ることにした。その「入用」(費用)も急ぎ上司へ御願いしてあるという事
で番士達は承知した。

一最寄作場船取締方兼而申立置候処、夫々領主・地頭江及御掛合、其上御差留方可被仰聞候処、差向候義ニ付時宜ニ寄私共取計可申由被仰下是又承知致し候、  去亥年長州ニ附属之浪士共、此節手放ニ相成長州表不残引払、野州辺江可立越之趣相聞候ニ付、猶又厳重ニ御取締被 仰渡御書付御写壱冊被成御廻落手承知致し候

〇地元の作場船取締については、それぞれ作場渡支配の各領主にお伺いするのが筋ではあるが、緊急の事でもあり状況次第で私たち関所番士が取り計らうようご指示いただき承知した。
  また、昨年(1863年)八月十八日の政変で朝廷の保護を失った長州藩の「浪士」達が、下野辺りに「立越」してるようであるから、その取締も厳重にするようにという書付も戴き承知した。

一外*酒井下野守殿鉄砲通し方請書略也

*酒井下野守:酒井忠強(ただつよ)、伊勢崎藩主、元治元年灌漑用の八幡(やはた)沼(新沼)を完成させた。明治18年6月14日死去。51歳。(日本人名大辞典)

一水戸殿御家来通方之儀ニ付別紙伺書壱通差上候間、急速御差図被下候様仕度奉存候
右之段御報旁如斯御座候、以上
  六月十二日   足立十兵衛
         冨田潤三
          加藤摝兵
          嶌田耕平
    渡辺幸之助殿
    小菅十一郎殿
    松澤俊助殿
    山口市郎次殿
追啓、然者野州辺徘徊いたし候浮浪之徒追討之儀ニ付諸家江御達有之候、御関所之義一際厳重可取計、別而川々心付怪敷もの者聢と相糺、時宜次第搦取討取可申旨、其外御書付御写壱冊御達し被成落手委細承知致し候、猶厳重可取計旨被仰下、是亦承知致し候

〇「浮浪之徒」の「搦捕討取」(からめとりうちとり)の命令と書付写を受け取り、委細承知したということ。

一*御代官様無程出張之趣為心得被 仰下承引仕候、以上
*御代官:房川渡栗橋関所番士達の上司、福田所左衛門のこと。
  〆 
入記
 一伺書    壱通
 一別紙    壱冊
   〆
 房川渡中田御関所通方之儀ニ付伺書

一水戸殿御家来通方之儀ニ付、*勤番*土井大炊頭殿者頭*鷹見半左右衛門ゟ別紙写之通り御触達御座候趣ヲ以、私共江今日打合有之候得共、右者其御役所ゟ御関所へ御達無之内者、当四月中右御家来通方相伺候節、*板 周防守殿被 仰渡候御附札之通、*矢張相心得通方取計可仕哉、依之大炊頭殿家来ゟ私共為心得差出候御達書写並周防守殿被仰渡書御附札写相添此段奉伺候、以上
  子六月十二日    足立柔兵衛
            冨田潤三
            加藤摝兵
             嶋田耕平
    福田所左衛門殿
      御役所
     〆

*勤番:江戸時代、大名の家臣が交代で出府し、江戸の屋敷などに勤務すること。あるいは遠方の要地に出張して警備につくこと。また、その人。(デジタル大辞泉)この場合は、元治元年四月十二日より古河藩士10名が鉄炮10挺を装備して房川渡栗橋関所の関所番に当たった事。但し、関所の平常業務や夜番は致さず、緊急事態対応の臨時的な一隊であった。
*土井大炊頭:土井利則(としのり)、下総古河藩主。
元治元年(一八六四)段階では、幕府から水戸藩天狗党関連の投降者百余名を預けられ、その半数を処刑しなければならなかったが、明治元年(一八六八)になると、古河城内の貯米すべてと、金一万数千両ほか武器馬匹の献納を官軍から強要されたうえ、さらに各地の警備や会津討伐にも出動させられた(国史大辞典)。
*者頭:戦国・江戸時代の武家の職名あるいは格式の一つ。一般に歩兵の足軽,同心などからなる槍(長柄(ながえ))組,弓組,鉄砲組などの頭(足軽大将)をいう。侍組(騎兵)の頭(侍大将)である番頭(ばんがしら)につぐ地位にあった(デジタル大辞泉)。
*鷹見半左右衛門:鷹見泉石息子、家老(?)。
*板 周防守:片名字、板倉勝静(かつきよ)、備中松山(高梁)藩主、周防守・阿波守・伊賀守。幕末に二度老中襲職。安政の大獄(1858年)では、寺社奉行兼奏者番として寛大な処分を主張して罷免される。老中就任後、生麦事件および安政の大獄関係閣老の追罰と連坐者の赦免を処理し、文久三(1863)年三月将軍徳川家茂の上洛に随行し、攘夷実行の勅命を奉承して六月帰府したが、その行われ難いのを知って辞表を提出して許されず、各国公使と横浜鎖港談判を開始し、池田長発の一行をヨーロッパに差遣した。元治元年(1864)六月老中を罷めて帰藩し、十一月長州征伐に藩兵を率いて出陣。のち徳川慶喜とともに大政奉還。のち榎本軍の五稜郭に拠ったが、東京に出て自首。のち上野東照宮祠官(国史大辞典)。
*矢張:依然として、動かさないでそのまま(国語大辞典)。


〇水戸殿家来の関所通行について、土井大炊頭殿家来より差し出された今回の御触(「大目付江」)に従うべきなのか、以前四月に老中板倉様から命令された付札の趣に依然として従うべきなのか、番士達は迷ったため、両方添えて江戸の代官役所へ問い合わせている。









2018年1月7日日曜日

〔第25回 関東諸大名へ、浮浪之徒追討命令が下る〕


  


新年明けましておめでとうございます。
今年も皆様よろしく御願いします。

久喜古文書研究会は、現在16名で活動しています。月1回2時間の学習会を、前半1時間は「関所御用留(元治元年)」の精読にあて、後半1時間は天保7年の「久喜町打ちこわし」に関する諸文書の読解に当てています。心がけている事は、原文書の一字一句も疎かにせず、詳細を解き明かす読解の厳密性です。ディテイル追究の繰り返しが、豊かなリアリティーを開いてくれる事を期待しつつ、励んでおります。

今回は、ブログ兼飲み会担当の私の著書『目録で読む北奥新田農民生活史』(風詠社 舘山誠編著 2000円)の広告をさせていただきます。



上の表紙の航空写真を御覧下さい。新田農民達の希望と苦闘が展開された舞台です。何とも神々しいですね。読者諸氏におかれては、初秋の御山参りの時期(9月初旬)、五所川原市脇元の靄山に登りますと、これと似た景色が愉しめます。





竹梱と脇差の画像
「本書は、幕末安政期から昭和の高度経済成長期にかけての百有余年、本州最北の辺境開拓(津軽平野北部)に苦闘した新田農民達の生活実態の現場報告書であ」り、「多くの情報と編者の註を彼処に盛り込んだ『目録』という形式を試みた」ものです。目録編と読解・画像・系図・分析編と二部構成になっています。地元の地名・人名がたくさん掲載されているのも一特徴です。
 農民達の知足精神と助け合いのデクノボー的モラル・センスを彼処に見る事が出来ます。「百姓に歴史はあるか」という歴史学者達に対する一つの答えとして、この編著を読んでいただければ幸いです。
 ご興味のある方は、書店なりアマゾン等のweb販売でお取り寄せていただくか、皆様の地元図書館でリクエストしていただくこともできます。



〆
   六月九日御渡
        *土井大炊頭
        *久世謙吉
野州辺徘徊いたし候浮浪之もの追々横行相募候ニ付、鎮壓方之儀水戸殿ニ而御所置可有之筈ニ候、就而者*関所之義一際厳重増人数等差出、怪敷もの一切差通し申間敷、且近辺散乱可致も難計候間自領之固厚相心得、暴行之もの者無二念討取可申候、尤近領之諸家江も討取方夫々相達候間、近隣申合取計候様可被致事

*土井大炊頭:古河8万石6代藩主土井利則・従五位下(1831~1891)
*久世謙吉:『武鑑』(諸国御固場所付)において、松平山城守(出羽上山3万石第9代藩主松平信庸)とともに浜御殿を5千人で警備となっている。下総関宿第8代藩主久世広文の幼名。従五位下・出雲守から隠岐守遷任。
*関所之義:この場合の関所は、古河土井氏に臨時勤番が下命された房川渡中田関所と関宿久世氏管轄の関宿川番所(関所)のこと。

〇浮浪之徒の鎮圧は、本来水戸殿が処置すべきことではあるが、事態の悪化もあるかもしれず、支配管轄関所の厳重取締と自領内の警備に心がけ、近隣大名・旗本・代官と連絡を取り合って事に当たるよう支持されている。

    〆
       *秋元但馬守
野州辺徘徊いたし候浮浪之者追々横行相募候ニ付、鎮壓方之義水戸殿ニ而御所置可有之筈ニ候、就而者日光山御警衛厳重相心得、且自領固之儀も厚申付、暴行之もの者無二念討取候様可被致候、尤近領諸家江も夫々討取方之義相達候間、近隣申合取計候様可被致候事
   〆

*秋元但馬守:館林藩7万石藩主秋元志朝(ユキトモ)・従四位下奏者番(1820~1876)

〇館林藩秋元氏には、日光山警衛を下命した上で、前期と同様の事が通達されている。


*井上河内守殿御渡覚書写

       覚
野州大平山集屯之もの共所々横行狼藉およひ難捨置候間、為鎮壓方水戸殿ゟ御人数被差出候筈ニ付、近領諸家江相達候趣も有之候間、居城無之面々も在所又者陳屋有之家来差置候向者、人数*(差出力ヲ合セ討取程遠之分ハ)模様次第援兵差出し御府内江不立入様可取計者勿論之儀、外々江散乱不致ため弥領分知行取締厳重相立、川々等者別而心附怪敷もの者聢と相正し時宜次第搦取討取可申候
右之趣関八州領分知行有之面々江可被相觸候事
   子六月十日 *神保伯耆守ゟ差越
 〆

*井上河内守:上総鶴舞藩7万石藩主・従四位下・侍従・老中、市原に陣屋(1837~1904)
*(差出力ヲ合セ討取程遠之分ハ):この部分、足立柔兵衛家の留書には存在するが、島田家留書にはない。書き落としたのであろう。
*神保伯耆守:神保長興は文久3年11月迄騎兵奉行だった。900石の旗本で、神田神保町の町名は、この神保氏の屋敷に由来している。「六月十日」時点の任官名は調査の必要あり。

〇居城もなく陣屋に家来を置いている小規模大名・旗本も力を合わせ、必要なら他領へ援軍を出し、浮浪之徒が江戸府内へ立ち入る事のないよう指示されている。

   水戸殿家老江
大平山江屯集いたし候者共召捕御人数御差出之儀ニ付、此段被仰立候趣も有之候得共、右者最前相達候説諭之御趣意徹底不致及軽挙候而者如何ニ付、先穏便為引払候様相達置候処、当今所々散乱不容易所業および候間、諸家領分ゟ申立候次第も有之候、付而者最早難捨置候ニ付、此程被仰立候通早々御人数御差出厳重御所
置可被成候、尤近領援兵之儀も御願之通夫々相達置候間、此段可申上事

  〆

〇大平山に屯集した浮浪の徒は、水戸殿の説諭などでは効果がなく、最早捨て置けない状況であるから、水戸家も軍隊出動をもって鎮圧すべきことを水戸家家老宛に下命している。


       *松平大和守
       *松平播磨守
              *戸田越前守
       *土屋采女正
       *牧野越中守
       *鳥居丹波守
       *水野日向守
       *石川若狭守
       *細川玄蕃守((ママ))
       *戸田長門守
       *松平大炊頭
       *井上伊予守
野州辺徘徊いたし居浮浪之徒追々暴行増長いたし候ニ付、鎮圧之儀水戸殿ニ而御所置有之候筈ニ候得共、右人数出之遅速ニ不抱早々追討可被致候、尤近領諸家江も同様相達候間、申合不討洩様可被致候
   右写六月十日於*御殿*木村甲斐守殿御渡し


*松平大和守:松平直克(なおかつ)、川越・前橋藩主、政事総裁職として一橋慶喜とともに橫浜鎖港を推進、天狗党鎮圧には消極的であったが、元治元年6月罷免
*松平播磨守:松平頼縄(よりつぐ)、常陸府中藩主・水戸松平一門、石岡に陣屋
*戸田越前守:戸田忠恕(ただゆき)、宇都宮6代藩主、天皇陵修復の建言・調査・修復の功を認められる。天狗党をめぐっては藩内の対立を招き、減封
*土屋采女正:土屋寅直(ともなお)、土浦藩主、烈公徳川斉昭の従弟、天狗党討伐には消極的
*牧野越中守:牧野貞直(さだなお)、笠間藩主、天狗党鎮圧には積極的に対応
*鳥居丹波守:鳥居忠宝(ただとみ)、下野壬生藩主、天狗党に対しては藩内対立があったが、鎮圧の姿勢
*水野日向守:水野勝知(かつとも)、結城藩主、戊辰(ぼしん)戦争に際しては幕府側にたち新政府側の藩士がまもる結城城を攻めて占領したが、新政府軍の反撃に敗れ(結城戦争)隠居謹慎 (日本人名大辞典) 。
*石川若狭守:石川総管(ふさかね)、下館藩主、雁間詰、若年寄陸軍奉行兼帯、新政府知事・権少教正
*細川玄蕃頭:細川興貫(おきつら)、常陸谷田部・下野茂木藩主、熊本細川枝族、のち貴族院議員
*戸田長門守:戸田忠行(ただゆき)、足利藩主、宇都宮戸田家の分家、幕府陸軍奉行並、のち貴族院議員
*松平大炊頭:松平頼徳(よりのり)、常陸宍戸藩主、第6・15回注を参照
*井上伊予守:井上正兼(まさかね)、下妻藩主。天狗党鎮圧のための追討軍本営が下妻に置かれたため、下妻陣屋は天狗党との激しい戦いの末に焼かれてしまった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争においては、最後の藩主である正巳は新政府軍に与しようとしたが、旧幕府側からの圧力を受けて一部の藩士が会津藩との戦いで会津側に与したため、新政府からそれを咎められて改易に処されかけた。しかし藩の家老が懸命に弁明し、さらに佐幕派であった今村昇らを殺害したため、改易の危機をかろうじて免れた(ウィキペディア)。
*御殿:この文脈上では、本丸の御殿勘定所のことだろう。
*木村甲斐守:木村勝教(かつのり)、勘定奉行並


〇御殿勘定所(本丸内にある)において、勘定奉行並木村甲斐守より右写が、「浮浪之徒」が「散乱」すると思われる地域の十二大名に手渡された。各大名の江戸留守居役が呼び出されたのであろう。内容は、水戸家の出兵を待たず、各大名が近隣の御料・地頭領・私領の者と「申合」をして「浮浪之徒」の追討に当たるべしというものである。








2017年12月1日金曜日

〔第24回 栗橋船戸町の者たち、非常呼集される!〕


はじめにお知らせ

『栗橋関所の番士でござる ~島田家文書を紐解く~』

 久喜市立郷土資料館で展示会が催されています。
 12月24日(日)までとなっております。
 以下、ポスターと内部写真をご紹介します。




文机

房川渡中田関所(栗橋関所)西側から


元治元年6月9日・10日・11日、大平山を引き払った「浮浪之徒」は、野州・常州方面に横行する。北関東の大名・旗本・幕府領代官は、兵員・武器の準備のため、房川渡中田関所を繁く往来する。


六月九日
一支配御役所ゟ御用状到来
急宿継を以致啓上候、然者昨七日附急御用状今*八時相達致披見、浮浪之徒大平山引払後所々横行いたし、右ニ付御関所附非常駈付之者両三人夜中為相詰川中見張不寝番御申付*貴様方ニも御掛廻り取締方御取計之御心得二付、先便御申越有之候御入用之儀急速御沙汰有之候様可取計、右ニ付巨細御申越之趣承知いたし候

*八時:午後2時頃
*貴様:あなたがた(関所番士達)

〇「浮浪之徒」が大平山を引き払い、各所に横行している。関所では臨時の不寝番を置き、川の中の見張りもさせるようこちらから申し付けましたが、あなたがたの負担も併せて、先便において要請がありました非常警備の費用(「御入用」)について、直ぐに上司の指示が下りる様にいたします。
      
一先便御差越有之候御関所最寄*作場船差留方之義、他領之分ハ夫々於当方領主江可及掛合候得共、前条御申越之趣も有之、*差向候義ニ付*時宜次第其表ニ而御取計可被成候                      

*作場船:田畑耕作等のための地元の船。
*差向:当面すること・差しあたり・とりあえず
*時宜:時期・機会、物事の状況・状態・条件
 
〇作場船の差し留めの件に付、周辺の領主(古河土井・関宿久世・館林秋元・一ツ橋諒知・多くの旗本達)へは江戸代官所より掛け合う。また、費用のことについては、非常亊のことだから状況次第にあなた方関所番士達が臨機に対応してほしい。

一川陸改方ニ付御申越之趣承知申上候処、右者前条申越之趣も有之、急場之義二付いつれニも御入用相立候様可被仰立間、御見廻り等之儀共無御手抜様御取計可被成旨被仰聞候間、左様御承知可被成候
右之段可得御意如斯御座候、以上
子六月八日              山口市郎次
                   松澤俊助
                   小菅十一郎
                   渡辺幸之助
        嶋田耕平殿
        加藤摝兵殿
        冨田潤三殿
        足立柔兵衛殿

〇川と陸の警備についてあなた方(関所番士達)から申出がありましたが、費用について、川も陸も必ず出してもらうようにしますから、手抜かりのないよう実行するよう上から指示されましたので、御承知下さい。

 〆
一右之通御用状到来二付兼而七日夜ゟ不寝番申付為勤候処、右ニ付*茶船番・馬船番并当川岸船持其外船稼之者共先前ゟ非常駈付之者呼出不寝番勤方申渡、御関所ゟ夜中見廻り候間急度可相勤事

*栗橋宿渡場は船渡である。茶船・馬船が料金を取って人・馬・荷物を渡してい
た。

〇栗橋宿の渡場渡世の者、河岸の船持商人、その他船稼ぎの者たちを非常呼集し、不寝番も勤めるよう申渡し、関所番士が夜中監視しているから緩みなく勤めるよう命じた。

一浮浪横行之次第二付、野州・上州・*常州奥筋其外共諸家并*交代寄合、在所又者陳屋等江人数・武器持運并飛脚等往来致し候事繁々有之候得共、是等者相記不申候事

*常州奥筋:今の茨城県北部、常陸大宮や大子方面のことをいう。
*交代寄合:知行高一万石未満の旗本で、知行地を持ち参勤交代を義務づけら
れていた。天狗党事件に関連すると思われる交代寄合は、下野国に陣屋を置
く那須衆を挙げる事が出来る。那須・福原・大関・蘆野・大田原氏など。

〇北関東一帯の大名家や旗本家(交代寄合)が自らの支配領地・知行所あるいは陣屋などへ兵員を向かわせ、また武器の運搬などで、栗橋関所を頻繁に往来している。

六月十一日
一急御用状到来左之通
以宿継致啓上候、然者*其表一昨八日附御用状昨九日相達致披見候、御申越之趣承知*入記之書類受取可申候

*其表:そちらの関所の方
*入記:本研究会にとってもずっと謎の語句である。いろいろ推測は出来るが、いまもやはり不明と言っていい。
関連語に「入日記」があり、内容明細書とか商品の在中目録、あるいは金銭の収支、物品の出入などを日ごとに記しておく帳簿、いりにっき、とある(日本国語大辞典)。

〇あなた方(一昨8日付)の御用状が昨9日に届き拝見しました。あなた方の手紙の内容を承知しました。入記の書類を受け取って下さい。

一去*亥年長州ニ附属之浪士共此節手放ニ相成、野州辺江可立越哉之趣相聞候二付、取締方被仰渡候間、則被仰渡書写壱冊差進申候、委細右ニ而御承知改方等厳重候取計可被成候、外御用筋ハ略ス
右之段可得御意如斯御座候、以上
 子六月十日             山口市郎次
                   松澤俊助
                   小菅十一郎
                      *不詰無印
                   渡辺幸之助
      当方四人殿

*亥年:文久三(1863)年のこと、前年には文久の幕府改革、生麦事件、mまた朝議において攘夷決定がなされている。この年の幕府・長州藩の動向を概括しておく。

3月 将軍家茂上洛
4月 幕府、五月十日を期して攘夷決行を奏上(朝廷に促され幕府も果たせるはずのない約束をした!)
5月 長州藩は、下関海峡通行の外国船を砲撃して、敗北
8月 八月十八日の政変(朝廷内でクーデターが起き、尊王攘夷派の公卿達が長州へ落ちていった=七卿落)→この時点で、長州藩は朝敵となり、多くの長州藩浪士が幕府からも朝廷からも追討される立場に変わり、窮した浪士達が外国人に対するテロなど過激化する。

*不詰無印:小菅十一郎は、この時出張御用で代官詰所にいなかったので、無
印ということ。

〇朝廷の後ろ盾を失った長州浪士達が、北関東にやってくるという噂が流れ、「浮浪之徒」の取締は、「被 仰出(渡)書」にある通り、いよいよ厳重に指令される。

別紙被 仰出書左之通
 去亥年長州ニ附属之浪士共此節夫々手放シニ相成候二付、長州表者不残引払、下野国日光山之方江可立越由之趣ニも相聞候二付而者、何時何方江可相越も難計、且先々ニおゐて何様之挙動可致も難計、関所番所ニおゐてハ兼而相触置候通相心得、猶又増人数等差出厳重取締方いたし往来人精々相改、怪敷躰之もの一切通行為致間敷、若押而可罷出と仕成候もの有之候ハヽ差押可被申立候、万一手向
等いたし候もの有之候ハヽ無用捨討取可申候
右之通*井河内守殿被 仰渡候間此段申渡候
 子六月九日
  *竹内下野守殿被仰渡候
     *差引
       吉田昇太郎
〆
*井河内守:片苗字。井上正直(1837~1904)、老中・従四位下侍従、上総鶴舞藩主
*竹内下野守:竹内保徳(1807~1867)、勘定奉行・外国奉行。開港延期の交渉の文久遣欧使節としてイギリスへも行った事あり。
*差引:指図をする事、差配をする事(日本国語大辞典)。

〇被仰出書(おおせいだされがき)として、老中・勘定奉行から命令が関所にも下ったのである。怪しい者は通行させるな、無理矢理通行する者は取り押さえて其筋へ申し立てなさい、もし手向かいなどしたら容赦なく斬ってよいということである。

一支配手代*中村新平出役二付、先達而御渡ニ相成候御鉄炮附属之玉薬箱壱荷持参候由ニ付、宿役人を以差出ス則受書
    覚
御備御鉄炮附属
 一玉薬箱     壱荷
   但御紋附雨覆共
 右之通被成御渡受取申候、以上
  子六月十一日    房川渡
              足立柔兵衛
              冨田潤三
              加藤摝兵
              嶋田耕平
     中村新平殿
 〆
*中村新平:代官支配所手代。玉薬を関所に運んで来たのである。

〇関所御備鉄炮の玉薬が、栗橋宿問屋場まで運ばれてきた。受け取った宿役人は、関所にそれを持参し、関所が受書を差し出したのである。

六月十二日
 御用状到来左之通
 宿継ヲ以致啓上候、然者野州辺徘徊いたし候浮浪之徒追討之義ニ付諸家江御達有之、御関所之儀一際厳重可取計別而川々等心附、怪敷もの者聢と相糺、時宜次第搦取討取可申旨、其外御書付出候間写差進申候、委細右ニ而御承知川陸共厳重御取計可被成候、尤右為御取締御代官儀無程出張いたし候間、為御心得申進候、右之段可得御意如斯御坐候、以上
   子六月十一日             元〆四人印
      此方四人殿
 入記
一御達書    壱冊


〇江戸の代官支配所に詰めている渡辺幸之助以下手附・手代より御用状が到来した。関所の厳重取締をいっそう心がけること、関東の大名・旗本にも「御達書」を渡し、厳重警戒・討取を指示したこと、また代官も取締のために御出張されることを伝えてきた。














2017年11月6日月曜日

〔第23回 「生捕」・「打留」・「召捕」・「乱妨」・「押借」〕


天狗党のゲリラ活動、そして農兵を主力とした代官鎮圧軍の戦闘の記述が生々しい。村々の百姓達も、同調-反発の深刻な対立・抗争を繰り返し、今でも各所に「天狗塚」なる死骸埋葬地が存在するそうだ。どの時代においても、戦いは、現場をクローズアップすればするほど、複雑怪奇な酸鼻的様相を呈する。以下の記述は、大変リアルな記述で、想像力を刺激するだろう。

一昨八日*夜五時、御代官*山内源七郎殿家来海老沢善介・岡田定吉、源七郎殿合印鑑弐枚持参差出断候二付子細相尋候処、此度浮浪之徒御同人支配所野州*竹下村江相集、農家江立廻り軍用金と唱押借等又者乱妨致シ凡人数三拾人位之由、右竹下村江山内源七郎殿手附・手代陣屋附*農兵弐百人計召連、昨七日源七郎殿具足着用出馬之上右人数之内三人生捕、三人者鉄炮ニ而打留、右ニ付*真岡陣屋詰手代三澤升三郎・手付相澤傳九郎ゟ江戸小川町役所詰秋山鈴之助・川村良作宛之書面見届合印鑑等も相達無之、非常之義ニ付以来之例ニ者不相成候趣申聞取計相通候、尤右ニ付*戸田越前守殿ゟ加勢三百人右竹下村江出張致候得共御用ニ不相立候趣、真岡陣屋江者*笠間牧野越中守殿ゟ人数五拾人相詰并*宇部㠶之助殿ゟ人数六・七人詰居候由、浮浪之者者此節常州*北条江六百人、同筑波辺江五百人屯致し候由、真岡陣屋ゟ竹下村迄道四里位ニ有之、且支配所村方名主父子ニ而浪人江同意致し如何之義有之候処、相顕父者逃去伜者御加勢申上度と申陣屋に顕出候処、源七郎殿手ニ而召捕ニ相成候由也

*夜五時:午後8時頃
*山内源七郎:真岡8万石支配の幕府代官、慶応四(1868)年五月十七日佐賀兵が真岡陣屋焼打ち、源七郎は手代達とともに獄門に処される。
*竹下村:明治二十二(1889)年、市町村制施行により栃木県芳賀郡清原村となる。昭和二十九(1954)年宇都宮市に編入。現在宇都宮市竹下町。
*農兵:水戸藩・長州藩の一時的設置がきっかけとなり、幕府の文久改革の一環として代官支配地や水戸藩などで積極的に募集し動員された。費用は豪農層の献金によって賄われたようで、主に村役人等が組織して幕府代官や藩によって動員された。
*戸田越前守:戸田忠恕(タダユキ)(1847~1868)、宇都宮藩七万七千石第六代藩主。寺社奉行・奏者番。天狗党の乱の際、筑波山に出陣したが、幕府の命令を待たず帰陣。戊辰戦争では新政府軍。
*笠間牧野越中守:笠間八万石第八代藩主牧野貞直(サダナオ)(1831~1887)寺社奉行・奏者番・大坂城代。天狗党鎮圧の幕府軍として戦う。
*宇部㠶之助:「宇部」か「宇都」か判読しかねる。
*北条:茨城県つくば市北条(ホウジョウ)。多氣山南麓。


〇真岡陣屋より江戸への書面を特別扱いで関所を通している。その書面によると、戸田宇都宮藩軍三百人は竹下村に出陣したが、戦闘の意欲がないとある。






2017年9月26日火曜日

〔第22回 栗橋関所にケヘル筒六挺御備〕


鉄炮と附属の品々、また竿鉛・焔硝・管の必要量が見積られ、関所に供与された。玉の「鋳減」分としての「竿鉛」や「筒払10度」分の「合焔硝」、「不発分」の「管」も見積られている。




〔翻刻文〕

六月八日
一御鉄炮御渡二付請書差出如左之御鉄炮御差立方御用状拝見いたし候、然者当御関所御備御鉄炮六挺其外附属之御道具共此度御渡ニ相成候二付、横田弥兵衛差添御差立被成候、別紙御目録之通無相違請取申候、尤玉薬箱之儀者追而御渡被下候段御下ヶ札之趣委細承知仕候
一右御鉄炮御預証文壱通并御請目録書弐通差上申候間御落手可被下候
一立花出雲守殿家来印鑑壱枚先便被成御廻受取申候
右之段為御請如斯御座候、以上
元〆四人殿
入記
一御請書 三通
一御鉄炮御差立先触壱通
一御鉄炮御預証文御案書壱冊返上
 〆

〔訳文〕 

六月八日
 一鉄炮の供与につき請書を左のように差し出す
 鉄炮の発送につき御用状拝見しました。さて、こちらの御関所に御備の鉄炮六挺その他附属の道具、横田弥兵衛殿が附き添われ、この度拝受致しました。別紙目録の通、間違いなく請け取りました。尤も玉薬箱は近いうちに渡して戴けるという下ヶ札の趣、委細承知いたしました。
一右の鉄炮御預証文一通と御請目録書二通、差し上げますのでお受け取り下さい。
一*立花出雲守殿家来の印鑑一枚、先便でこちらへ送付なされ、受け取りまし   た。 
右の件承知いたしました。
元〆四人殿
入記
一御請書三通
一御鉄炮御差立先触壱通
一御鉄炮御預証文御案書壱冊返上
 〆
*立花出雲守:立花種恭(たねゆき)、陸奥国伊達郡下手渡(しもてど)村(福島県伊達郡月館町)に陣屋をおいた藩。藩主は立花氏。外様。一万石。文化三年(一八〇六)立花氏の筑後国三池よりの転封によって成立。
 
〔翻刻文〕

  覚
一ケヘル筒    六挺
一胴乱負革共   六ツ
一𠝏袋管入真鍮セヽリ鎖付 六組
一三ツ股玉取共 六組
一万力    弐挺
一鋳形鋳鍋共 壱組
一右御筒入長持壱棹       (下ヶ札)
但御紋付油単共          「御書面玉薬箱之義者追而
一両掛玉薬箱 壱荷           御渡之趣承知仕候」
但御紋付雨覆共           
六月十一日御渡ニ相成申也
一御筒懸   壱居
一替火門   六ツ
  〆
右之通被成御渡請取申候、以上
子六月   房川渡中田御関所番
足立柔兵衛印
冨田潤三同
加藤摝兵同
嶌田耕平同

渡辺幸之助殿
小菅十一郎殿
松澤俊助殿
山口市郎次殿
〆      

        覚
一竿鉛五貫四拾目 但 鋳減之分見込玉数六百玉分
一合焔硝壱貫八百目
  内   壱貫弐百目 但 御備合薬六百発分
      六百目 但 筒払合薬当六月ゟ十二月迄拾度分
一管九百九拾粒
  内   六百六拾粒 但 御備管不発分見込六百発分
      三百三拾粒 但 筒払不発分見込六月ゟ十二月迄拾度分
 〆
 右之通被成御渡請取申候、以上
   子六月   *―
          ―― 
           〇 
当方四人印

    元〆四人殿
〆
*洒落た判じ物です。「棒・線・輪足す」で「房川渡し」か?



〔翻刻文〕

 一ケヘル御鉄炮  六挺
      但 小道具共
右者当御関所之儀先前ゟ御関所附御鉄炮無之処、追々非常御備筋等被 仰出候御時節二付、今般御伺之上書面之御筒六挺附属之小道具共私共江被成御渡慥ニ奉預候、然ル上者御筒者勿論小道具ニ至迄大切ニ取扱、損所等出来候節者、早速其段申立御差図次第修復差加、都而不取締之儀無之様可仕候、為後日御鉄炮預証文仍如件締之儀無之様可仕候、為後日御鉄炮預証文仍如件
       房川渡中田御関所番
 元治元子年六月   足立柔兵衛印
           冨田潤三 同
           加藤摝兵 同
           嶋田耕平 同
 福田所左衛門殿
〆

御鉄炮預証文
上
    
紙
 
*上紙(うわがみ)…包紙のこと
〆

〔訳文〕

一ケヘル御鉄炮  六挺
      但 小道具共
当御関所には以前から御関所附御鉄炮がなかったのですが、だんだん非常御備の必要も云々される時節柄でもあり、今般御願いした通り御筒六挺と附属の小道具を私共へ供与いただき、慥かに預かりました。この上は御筒は勿論、小道具に至るまで大切に取り扱い、破損等しました時は、すぐにそのことを申し立て、御差図に従って修復いたし、管理に落度なきよう致します。後日のためこのように鉄炮預かり証文を記しました。
      房川渡中田御関所番
 元治元子年六月   足立柔兵衛印
           冨田潤三 同
           加藤摝兵 同
           嶋田耕平 同
 福田所左衛門殿
〆

御鉄炮預証文
上
    
紙


〆