2016年12月23日金曜日

〔第12回 日光山輪王寺門主名代の通行〕


先ずは今後の予定をお知らせします
 1月9日(月)13:00~15:00 於栗橋公民館A102号室
2月6日(月)13:00~15:00 於栗橋公民館研修室
3月6日(月)13:00~15:00 於栗橋公民館研修室
4月3日(月)15:00~17:00 於栗橋公民館研修室
   (*4月から実施時間が変わります。御注意下さい。)


関所番士は、関所の通行人すべてを御用留に記しているわけではない。気にかかる通行人のみ記しているのであるが、その基準は判然としない。
元治元年(1864年)5月、相変わらず水戸家関連人物はwatchされている。また、今回は、日光山輪王寺門主名代の関所通行で一波乱起きる。


一小川町屯所先触写    壱冊
 〆 是ハ前有之候間爰略ス

五月四日          水戸殿家来   沼田順次郎
                      小林平之進
栃木町ゟ帰府通行目付方印鑑持参断事

同日            御同人家来   小室献吉
                       外僕壱人
右同断栃木ゟ江戸へ通例之合印ニ而断事

同六日           御同人郷士   ニ良山良吉
              小普請之由   沼田爲之丞
右栃木ゟ江戸へ通例之合印ニ而断事

五月七日          水戸殿家来   加藤権蔵
江戸小石川ゟ野州栃木迄通行目付方合印ヲ以断有之事

同日
一 日光御門主御名代世尊院杉戸出立ニ而登山通行付、同院印鑑家来差出断有之処、合印鑑未タ御達無之候間通行方差支之旨断候処、院主直々御関所罷越申談有之候得共取計兼候趣相断、無拠当本陳立戻り急飛脚相立候由、於御関所も支配向右差支相断候段為念差出左之通

日光御門主:日光山輪王寺門主のこと。明暦元(1655)年に後水尾天皇皇子尊敬法親王(日 光山門主・天台座主)に「輪王寺宮」号が、本坊光明院に輪王寺の寺号が勅許され、以後、輪王寺宮門跡が江戸上野の寛永寺で日光山以下天台宗を統括した。(「日本歴史大事典」小学館)

世尊院:覚了山清浄寺世尊院、元禄8(1695)年開創、5代将軍綱吉寵愛のお伝(瑞春院)所縁、寺領200石の朱印寺

以宿継致啓上候、然今七日日光御門主御名代之由ニ而、武州豊嶋郡千駄木世
尊院従江戸日光表通行之旨、家来川村寅吉と申者ヲ以テ同院直印紙差出候間
相改候処、右合印鑑御関所御達無之付、通方差支之旨相断候処、同院御関
所へ入来直談有之候、御朱印御証文等も所持之儀付不審無之候間、取計相
通呉候様被申談候へ共、去月十三日同御名代東叡山執当円覚院登山之振合
其御筋ゟ御達有之候合印鑑人数等迄書入候調印之書付差出引合相通候儀
付、一事之御用通行方候得、仮令御朱印持参有之候とも改方合印鑑無之候
而者難相通旨申断差戻候間、右御門主御名代と申儀付為念御届申上候
右之段為可申上如此御座候、以上
  子五月七日                  当方四人
            元〆四人殿
 〆

同日
一御目付ゟ御達書支配ゟ宿継ニ而到来如左
 
 
     御勘定奉行衆〔端裏書〕
                                                      

  一ミンイケイル筒  四拾挺    玉目九匁
  右秋元但馬守在所表差遣候付、房川渡中田御関所無相違相通候
様急速其筋へ御達可有之候、此段申達候、以上                 
五月               川村順一郎
                      設楽弾正



「御達書」が関所番士の上部機関である「支配」所より到来した。この「御達書」は、「川村順一郎」・「設楽弾正」二人の目付によって、代官支配所を管轄している「御勘定奉行衆」に宛てられたものである。この「御達書」を受け取った関所番士は、「御達書」の右端を折り込み、発信元の明示のため「御勘定奉行衆」と端裏書したのである。
秋元但馬守は、当時館林藩六万石の譜代大名。「浮浪之徒」に備えるための緊急の「四拾挺」であったと思われる。「玉目九匁」は、約34グラムもあり、「大筒」である。因みに、玉目八匁までは小筒と呼ばれた。
       

五月八日
一御門主御名代世尊院過日通行差支付、当駅止宿飛脚上野差立候処、執当役合印鑑持参之由川村寅吉罷出候間引合相違無之付、通行差支無之段申聞候、明九日早朝通行之由断有之事

同九日
  御門主御名代
    世尊院  上下拾五人
         川村寅吉断
 右登山通行其外略之事

同日
 右世尊院通行方相成御用状差出候

一当七日日光御門主御名代世尊院通行方合印鑑持参無之候付、差戻其段申上置候処、栗橋宿止宿致し急使ヲ以東叡山執当円覚院印紙取寄候由ニ而、昨八日八ツ時同院家来川村寅吉右人数書差出候付引合候処相違無之、勝手合ヲ以昨夜止宿、今九日早朝爰許出立登山致し候、此段御届申上候、以上 
 五月九日  当方四人
   元〆四人殿


元治元年5月7日、日光山輪王寺門主(門主輪王寺宮は、上野寛永寺に在居)の御名代世尊院
が、日光山へ向かう途中、栗橋関所に差し掛かった。同院の「直印紙」を差し出してきたが、肝腎の判鑑(合印鑑)が関所へ未提出であった。世尊院が直々に御朱印・御証文を差出し、通行許可を求めてきたが、許可するわけにはいかない。
 一行は7日・8日と栗橋宿に止宿し、急飛脚が東叡山執当円覚院の印紙を持参してきたのは、8日午後2時頃。間違いない印鑑であることを確認し、一行15人は59日早朝栗橋を出立した。
 この間の事情は、支配所の方へ御用状にて報告した。







2016年12月2日金曜日

〔第11回 実意のエートス〕


破けにくい和紙の強靱。水に流そうにも溶けない墨滴。-冴えないレトリックだが、今回は、番士たちの正路にして実意の精神に通じる場面を再び垣間見た思いがした。



今回から、訳文は省いて、大意と解説を加えるということにします。

同日               大炮御馬乗役   川口源次
                          楠木盛之助
江戸ゟ日光表通歩兵頭河野伊豫守殿印鑑銘々持参断出候事

五月二日             水戸殿内     石川熊武
                           外ニ家来弐人
野州栃木ゟ江戸へ通例之目付方合印持参断、植替之刀壱本持鑓壱本為断通行之事

石川熊武については、第5回注参照。
「持鑓」は、然るべき侍の外出の折、家来や小者に持たせた短い鑓のこと。

右同日
一日光山為御警衛歩兵組・大炮組・御持小筒組并役々附属之御道具御長持拾弐棹・分持壱荷、従江戸小川町屯所日光表在勤歩兵頭河野伊豫守殿旅宿迄差送候由、一昨廿九日夜先触到来付、兼問屋共ゟ差出候間合印引相違も無之無才料ニ者候得共夫々見届相通

先触写左之通り
     覚
 一御用状   弐通
 一長持    拾弐棹
    内九棹  歩兵方
     弐棹  大炮方
     壱棹  御持小筒方
 一分持    壱荷
   此人足六拾三人
日光山為御警衛歩兵組・大炮組・御持小筒組役々とも被差遣候付、右附属之御道具類明廿九日朝六ツ時江戸持出、千住宿ヲ向差立候条、渡船双方宿々申合、道中無遅滞継送於日光山光蔵坊歩兵頭河野伊豫守旅宿可差出もの也
 四月廿八日             小川町 屯所印  
                       大炮同
                   御持小筒組当番所印
       千住宿関門
       中田御関所
右両所共此印鑑引合相通候様可取計候 
                   日光道中千住宿ゟ日光山迄
                   右宿々問屋年寄中 
 〆

江戸小川町屯所より日光在勤の河野伊豫守殿旅宿まで、警衛隊の道具類等を荷物の責任者もなしに届けてほしいという先触が関所に届いたが、同じ先触は栗橋宿役人(問屋・年寄等)からもすでに差し出されており、合印確認の上荷物を見届け通行させた。

先触によれば、荷物は29日朝6時頃小川町を出発し、千住宿を目ざす。渡船については、両岸の宿でよく相談して取り計らってほしい。また、道中遲滞なきよう各宿の問屋・年寄は心がけてほしいとある。

因みに、この荷物を運ぶ63人の人足は、各宿で用意しなければならないが、各宿駅間約2里として、人足63人の役割・配置は、どのようだったか?
また、「分持」の具体像が浮かばないのであるが、ご教示願いたい。
もう一つ、「千住関門」は、どこにあったのか、またその査証は如何?

一右先触ニ而取計相通、支配御役所へ御用状差出如左之
 以宿継致啓上候、然今度小川町歩兵屯所ゟ日光表被差送候長持拾弐棹并分持壱荷、別紙写之通添触ヲ以宿継無才料ニ而差越候段、栗橋宿役人共申立候間、右添触披見之処向々連印之内屯所印鑑ハ先達御達有之候間引合候処無相違、尤在((ママ))之品柄不分明候得共、差向候御用之品々及差支候而者如何と相心得、右印鑑引合無差支通方取計仕候、尤先便御達之砌以来((ママ))右様之品々且御武器
類等被差送候節、引合可相通との御達も無御座候得共、差掛候義付此度之長持類品柄之不分明((ママ))右印鑑引合相通申候得共、右御武器も有之候而者是迄御武器通方規則相触候間、歩兵方右品柄御打合被下、万一御武器類有之候ハヽ在府歩兵頭之証文被差送候様いたし度奉存候、既先達河野伊豫守殿役々附添歩兵召連通行被致候節、銘々持参之御鉄炮ニ而も伊豫守殿ゟ証文被差出候義御座候、尤前々ゟ御武器類通方仕来ハ都御留守居衆之御断御坐候処、去亥年三月中諸家武器類通方御達以来、御武器通方も右准し非常御警衛向き旁御差立之分ハ出入共其御役筋ニ而証文被差出候得、無差支通方取計仕候義御座候間、今般被差立候長持之儀御武器類無御座候得證文も及ひ不申、乍併已後何様之品々被差立候哉、其節差支候而者如何と奉存候間、以来宿継ニ而送り候荷物有之候得、在中之品柄相分候様いたし度、此段歩兵方御達被下次便否御報被仰聞可被下候
右之段申上度如此御座候、以上 
  子五月二日                足立柔兵衛
                       冨田潤三
                       加藤摝兵
                       嶋田耕平
           渡辺幸之助殿
           小菅十一郎殿
           松澤俊助殿
           山口市郎次殿
入記


栗橋関所番士たちは、前述の荷物は、何と言っても中味が不明であり、通行許可を聊かためらったのだが、緊急の御用の品物であったら大変だと思い、屯所印鑑の引合・確認だけで通行許可した。

ただ、そのように処置せよという御達しがあったわけではない。今回の措置は緊急という一点で執った行動である。

もし荷物が武器類であるなら、以前はすべて御留守居衆の許可が必要であったが、亥年(文久3年)3月の「諸家武器類通方御達」以来、非常御警衛用の荷物は管轄当局の証文で済むことになった。

この度の長持の件も、武器類でなければ証文さえ必要ないということであるが、やはり宿継荷物の中味が分からないと、番士の仕事がやりにくいこともあり、そのことを歩兵方へ伝えて、次便で諾否をお聞かせ願いたいと支配所の上司に頼んだのである。

職務の全うのためには、上からの指示・規則に任せるだけではよしとせず、さらに現場の仕事の徹底のために策を尽くすのである。こういう気質・精神が、日本全国津々浦々において涵養され、それはまた時代を横断して培養されてきたのだと思う。筆者は、これを「実意のエートス」と呼んでみたい。





2016年11月1日火曜日

〔第10回 喧嘩負傷の歩兵人足等、江戸へ差し戻す〕



古河宿で、歩兵差図役下役の歩兵人足が互いの主の悪口を言ったのであろうか、喧嘩刃傷沙汰となり、10日程治療の後、歩兵組付医者の責任と付添で、船路で江戸へ連れ戻されることに。さて、「看病人」四人の記述が、理解しかねるのだが


〔翻刻文〕
同日
一先達日光為御警衛歩兵并役々登山之砌り古河宿止宿之節、歩兵人足宿間違之義有之疵受候者此度快方成古河宿ゟ江戸表ニ而差戻候趣、差添歩兵方御医師中村謙造歩兵頭河野伊豫守殿合印人数書持参差出断出候付、手負人之義付右謙造より左之書付取之船中ニ而見届通ス
    一札之事
              歩兵    善右衞門
              疵負人   長松
                  〆
              看病人   清四郎
                    要四郎
                    彦兵衛
                    久右衞門

日光為御警衛御登山之砌当十五日古河旅宿おゐて聊之義申募疵受為療治是迄逗留罷在候処、追々快方付同所ゟ船ニ而江戸表迄拙者指添引取申候、房川渡中田御関所無相違御通シ可被下候、依之此段以書付御断申候、以上
           元治元子年四月廿六日   中村謙蔵印
       房川渡中田御関所
右善右衞門胸壱ヶ所腕左右壱ヶ所ツヽ疵等有之三ヶ所、長松と申者ハ取留人ニ而壱ヶ所疵受委細歩兵差図役木村平作・梅澤平八郎組ニ而差図役之秘判をいたし夫ゟ刀ヲ以切合候由承り候事

四月廿六日            水戸殿御家来  関口啓蔵
野州栃木宿ゟ江戸へ通合印差出断内蜜御用ニ而通行抔と申事

同廿七日             御同人家来   ニ良山良吉
 右従江戸小石川野州栃木町迄通例之合印差出断、尤役名承り候処郷士之由栃木町宿所迄書面持参早駕籠ニ而罷越候趣也

同日               御同人家来   所兵蔵
従江戸野州栃木迄通合印差出断

四月廿九日            水戸殿内徒役  西村三平
従野州栃木江戸へ通目付方合印差出断出候事

同日               御同人家来   関口啓蔵
従江戸野州栃木迄通例之目付方合印差出断出候間、同人此程出府付子細承り候処調方ニ而猶又罷越候趣申聞候事

五月朔日             御同人家来   沼田順次郎
                         小林平之進
従江戸野州栃木迄通例之合印持参断出候事

同日               大炮御馬乗役   川口源次
                          楠木盛之助
江戸ゟ日光表通歩兵頭河野伊豫守殿印鑑銘々持参断出候事


〔訳文〕
同日(4月26日)
一過日、歩兵と役職の方々が日光警衛に向かわれ古河宿泊の節、歩兵人足宿で喧嘩負傷した者があり、この度治って古河宿より江戸表へ※(3)船で差し戻すということ、責任を以連れ参るのは歩兵方御医師中村謙造殿、歩兵頭河野伊豫守殿の合印・人数書を持参、差し出し、通行許可を求めてきましたので、手負人ということもあり、右謙造殿より書付を受け取り、船中にて見届け、通した
    一札之事
              歩兵    善右衞門
              疵負人   長松
                  〆
              看病人   清四郎
                    要四郎
                    彦兵衛
                    久右衞門

右の者は日光警衛のため日光への旅の途中、今月十五日古河旅宿において些細なことで言い争いになり負傷、療治のため古河に逗留しておりましたが、段々よくなってきたので、船で江戸表まで、拙者が預かって附き添っております。房川渡中田御関所を間違いなくお通し下さい、このように書付を以って許可を御願いします、以上
           元治元子年四月廿六日   中村謙蔵印
       房川渡中田御関所
善右衞門は、胸壱ヶ所・腕左右に一ヶ所づつ、併せて疵等三ヶ所、長松と申す者は、喧嘩を引き留めた者で、咽に一ヶ所疵を受けている。事情は歩兵差図役の木村平作組と梅澤平八郎組の者が互いに差図役を非難したため、刀で切り合ったということです

四月廿六日            水戸殿御家来  関口啓蔵
右は野州栃木宿より江戸へ通る合印を差し出し通行許可と求めてきたが、内密御用で通行などと話しておられた

同廿七日             御同人家来   (1)ニ良山良吉
 右は江戸小石川より野州栃木町まで通る例の合印を差し出し通行許可を求めてきた、尤も役名を承ったところ郷士ということ、栃木町宿所まで書面を早駕籠で届けに赴くつもりとのこと

同日               御同人家来   所兵蔵
江戸より野州栃木まで通る合印を差し出し通行許可を求めてきた

四月廿九日            水戸殿内徒役  西村三平
右は野州栃木より江戸へ通る目付方合印を差し出し通行許可を求めてきた

同日               御同人家来   関口啓蔵
江戸より野州栃木まで通る例の目付方合印を差し出し許可を求めてきたので、同人は先日出府(4月26日江戸へ向かう)したばかりなので、事情をお伺いしたところ、(2)調方という役職でまた栃木方面へ赴くとお聞かせ戴いた

五月朔日             御同人家来   沼田順次郎
                         小林平之進
江戸より野州栃木まえ通る例の合印を持参、通行許可を求めてきた

〔注釈〕
(1)「二良山良吉」:かなり怪しい名前です。「二良山」は、「ふたらさん」と読めます。それは、「二荒山」(ふたらさん→にこうさん)で日光山ということになります。「良吉」も、大吉・中吉・そして良吉ですから、冗談っぽいんです。自らを「郷士」といっています。幕末期、多くの草莽志士たちが、いくつもの冗談ぽい名を名告っていました。
(2)「調方」:いろいろな役職に使用されています。ここではどうなのでしょう。『万買物調方』(元禄5)という書物があります。しかし、この関口啓蔵は日を置かず、栃木と江戸を行き来していますので、情勢の見聞・調査の見分役という程の意味ではないかと思う。
(3)古河から江戸への船路

渡良瀬川~利根川~(逆川)~江戸川~小名木川~江戸表


   

2016年9月25日日曜日

〔第9回 日光警衛軍は総勢830人〕


まずお知らせをひとつ。過日、本会会長の島田昌弘氏が、久喜市から表彰を受けました。

島田家は、藩政期、房川渡中田関所の番士を代々務めてこられた家系であり、通行手形や御用留等大変貴重な文書群が「島田家文書」として、代々大切に保管され、久喜市指定文化財にも登録されておりました。

島田氏は、今回、その文書群を久喜市に寄贈なされ、このことに対して久喜市より表彰状が贈呈されました。

向かって右、島田昌弘氏、左は久喜市長田中暄二氏




もう一つお知らせ。久喜古文書研究会の実施予定日時を掲載します。

会のメンバーは多彩。元自衛隊の方、御百姓、元銀行マン、地質調査の元役人、元教員の方、中には「速水堅曹研究会」の方や「江戸東京博物館藩史研究会」の方、また烈々たる「歴女」の方々等々様々です。筆者もよく分かっていません。というのも、誰も自分の過去の栄光や辛苦を語らないのです。「今この時」を真っ新な気持ちで歴史と古文書に捧げているというわけです。


 

2016103() 13:00~15:00 於栗橋公民館研修室
2016117() 13:00~15:00 於栗橋公民館研修室
2016125() 13:00~15:00 於栗橋公民館A102号室
2016年  1月9日() 13:00~15:00 於栗橋公民館A102号室

     

 見学自由です!




〔翻刻文〕

四月廿三日
一昨日到来之御用答差出如左之
宿継御用状致拝見候、然歩兵屯所ゟ日光表差立候荷物通方及差支候、子細委細之儀宿役人共ゟ其御役所并日光表在勤之御目付方申立候得、御目付方歟御役所ゟ通方御関所御達有之御手続宿役人共申達、殊其節御役所ゟ御出役鈴木真三郎殿居合、右荷物通方拙者共御談有之候得共、難相通子細御同人及挨拶候処、御同人ゟも宿役人共御申付御役所へ委細為申立候趣御談判付、拙者共ゟ為念一応御届申上候義之処、如何行違之筋有之候哉、宿役人共ゟ御役所へ御届不申趣、然ル処日光表在勤之御目付方ゟ右荷物通方御達有之候間早速相通申候、巨細昨廿ニ日付ニ而御届申上候間左様御承知可被下候
右之段御請旁如斯御座候、以上
  子四月廿三日               足立柔兵衛
                       冨田潤三
                       加藤摝兵
                       嶋田耕平
          渡辺幸之助殿
          小菅十一郎殿
          松澤俊助殿
          山口市郎次殿
 〆
四月廿三日
           歩兵差図役下役並勤方   大塩瀧之丞
                         上下弐人
右之者従日光江戸へ通歩兵頭河野伊豫守殿合印持参断引合相返ス事

同廿四日       水戸殿御家来       美濃部又五郎
                         上下六人
野州栃木ゟ帰府之由ニ而、御目付方合印大山栄蔵と申者持参断引合相違無之付相通、尤又五郎義 公儀御目見以上之趣ニ而手札認メ差出則乗駕通行也

右同日         水戸殿御家来
                        小林平之進
                        梅原鉄之介
栃木ゟ江戸通目付方印鑑を以断出候事

右同日         右同断         沼田準次郎
小山宿ゟ江戸迄通例之印鑑ニ而断也

四月廿五日       水戸殿家来
                        古賀米次郎
                        中西其三郎
                        中村松太郎
従江戸野州栃木迄相通候由、目付方合印手札添差出、尤釼術稽古道具人足為持相通候事

同日          当支配加判        山口市郎次
日光御警衛之役々焚出為御用先達彼地相越候処、一ト先賄之料買入として((ママ))帰府歩兵人足其外役々共八百三拾人之賄之由也 

四月廿六日       水戸殿家来        西村三平
従江戸野州栃木迄通目付方合印差出断通ル事




〔訳文〕

四月二十三日
一昨日到来の御用状に対して、以下のように御用答を差し出しました

宿継の御用状を拝見いたしました。
さて、歩兵屯所より日光表へ発送しました荷物が関所通行出来なくなったことにつき、詳しい事情を申し上げます。
まず、神田小川町歩兵屯所と日光表在勤の御目付方へ宿役人共より申し立てたうえで、御目付方か屯所より通方について御関所へご命令いただき、その手続を宿役人共へ指示していただきたかったのですが、
その際屯所よりご出張の鈴木真三郎殿がちょうど関所に居合わせて、拙者共にその荷物の通行許可を望まれましたが、
然るべき手続きがなされなければ通すことが出来ない旨お答えいたしまたところ、
御同人からも屯所へ子細を申し立てるよう宿役人共に指示なされたわけです。
そこで拙者共も念のため屯所の方へご連絡申し上げるべきところ、
どういう行き違いか宿役人共より屯所へ連絡申し上げていないとのこと。
そんな時に日光表在勤の御目付方より、荷物通方のご指示があり早速お通し申したというわけです。
これらの一部始終は昨二十二日付御手紙に記しておりますので、そのように御承知なさってください。
以上種々御承知ください。
  子四月二十三日              足立柔兵衛
                       冨田潤三
                       加藤摝兵
                       嶋田耕平
          渡辺幸之助殿
          小菅十一郎殿
          松澤俊助殿
          山口市郎次殿
 〆
四月二十三日
           歩兵差図役下役並勤方   大塩瀧之丞
                         上下弐人
右の者日光より江戸へ通る歩兵頭河野伊豫守殿合印を持参して引き合わせ返却ス

同二十四日       水戸殿御家来       美濃部又五郎
                         上下六人
右は野州栃木より江戸に帰るということ、御目付方合印を大山栄蔵という者が持参して引き合わせ間違いないためお通ししました。尤も又五郎殿は公儀御目見以上ということもあり、手札を書いて差し出したので乗駕通行といたしたました。

右同日         水戸殿御家来
                        小林平之進
                        梅原鉄之介
右は栃木より江戸へ通る目付方印鑑を以って通行許可しました

右同日         右同断         沼田準次郎
右は小山宿より江戸迄通る例の印鑑にて許可しました

四月二十五日       水戸殿家来
                        古賀米次郎
                        中西其三郎
                        中村松太郎
右は江戸より野州栃木迄通るということ、目付方合印に手札を添えて差し出しました、尤も釼術稽古道具は人足に持たせ通りました。

同日          当支配加判        山口市郎次
右は先達て日光御警衛の方々へ焚出御用のため参られましたが、いったん賄いの材料を買い入れるため江戸に帰るというものです。歩兵・人足その外八百三拾人の賄とのこと。 

四月廿六日       水戸殿家来        西村三平

右は江戸より野州栃木迄通る目付方合印を差し出し、通行許可のこと








2016年9月6日火曜日

特集 久喜市の友好都市、青森県上北郡野辺地町を訪ねる!


筆者は、青森県五所川原市出身という事もあり、ここ数年津軽地方の歴史・民俗のフィールド・ワークを進めてきました。特に、元禄89年飢饉下の藩政と庶人の関わりの諸相を調べてきたのですが、今夏、思いがけず、久喜市の友好都市野辺地町を訪れる事になったのでした。


〔友好都市になった経緯〕



青い森鉄道野辺地駅、冬の防雪林がライトアップされています(野辺地町ホームページより)


明治24年9月、盛岡・青森間の開通によって東北本線が全通しました。
当時、国内鉄道の最北端にあたる当地方の冬季の列車運行は、連日の雪害によって極度の困難に直面していました。
翌25年、ドイツ留学を終えて帰国まもない青年林学者・本多静六博士が「鉄道の防雪には森林をもってすることが、すべての面で最善である」と、時の日本鉄道株式会社重役・渋沢栄一に進言したところ、直ちに採用されて早速第一次の設置箇所決定の運びとなりました。
翌年一斉に造林が実施され、ここにわが国初めての鉄道防雪林が誕生しました。
                     (野辺地町ホームページより)


久喜市出身(旧菖蒲町河原井出身)の名誉市民 本多静六博士の提唱により野辺地駅構内に設置された日本初の鉄道防雪林が、平成5年に100周年を迎えたことを記念した式典に、博士の出身地の代表として当時の菖蒲町長が招かれたことが縁で交流が始まりました。

その後、産業分野などを通じて交流を深め、菖蒲町と野辺地町が平成98月に友好都市の提携について協定書を取り交わしました。
協定書については、平成22323日の久喜市、菖蒲町、栗橋町及び鷲宮町の合併により失効となりましたが、失効後も産業分野などを中心に交流を継続し、平成25829日に久喜市として友好都市提携を結びました。(久喜市ホームページより)


〔出発〕


平成28年9月3日(土)、前夜、浅虫温泉に宿泊した筆者は、レンタカーで国道4号線バイパス(藩政時代は「奥州街道」と呼ばれた)を野辺地方面に向かった。
左手に野辺地湾が美しい。
この辺一帯は東津軽郡平内町である。
藩政時代は下磯と呼ばれ、津軽藩支藩の黒石御領であった。
現在は、もちろんホタテの一大生産地である。
しばらくすると、平内町狩場沢である。藩政時代は、この一帯が津軽・黒石藩と南部藩の藩境になっていた。


〔狩場沢駅〕




青い森鉄道狩場沢駅(無人駅) 南側は防雪林


〔藩境塚〕


狩場沢駅からさらに東へ進むと、左手下方の海岸際に巨大なマリモのような土盛が見える。
これが津軽黒石藩と南部藩の藩境塚と呼ばれるものだ。
地元では四ッ森と呼ばれているそうだ。現に、すぐ側には「四ッ森自動車」という看板を見ることが出来た。
野辺地町立歴史民俗資料館の鈴木さんによると、このような塚は、岩手県の鬼柳のものなど旧南部領(岩手県)には数ヶ所存在するそうだ。



海側から見ています。右側2つが津軽領、左側(草が刈られている)2つが南部領。

この川が二本又川で境界の川。



元禄8・9年の津軽藩庁日記(国日記)(弘前市立弘前図書館蔵)を見ていくと、南部口追放に処された者が結構いるのである。一例を挙げよう。

「元禄九年十二月廿三日 乙巳 曇 午中刻ヨリ雨

    申渡之
                廻関村治郎兵衛
其方儀庄屋申付置候とて、佐左衛門親子首折申候段不届候、
縦庄屋申付候共、首折申候以後早速可申出儀候、
御成敗をも可被成候得共、其段御用捨を以南部追放被成候事
                会所ニ而申渡 四役人
                      立合 御目付
                右畢附添
                      足軽目付 工藤久三郎
                             諸手足軽弐人
                             縄取壱人
    十二月廿ニ日
一筆令啓上候、廻関村次郎兵衛と申者不届有之候付、南部口追放申付候、
以来御国入申候ハヽ切捨可致由、堅申含追放可有之候 恐惶謹言
    十二月廿三日                大湯五左衛門
                          木村杢之助
                          堀傳左衛門
        堀合安兵衛殿
        對馬弥次兵殿
右書状附添之足軽目付相渡遣之」
   

元禄9年、廻関村の佐左衛門親子が盗みをし、同村庄屋と百姓次郎兵衛が「自分として」(自分達の手で)成敗したという事件である。庄屋は「私欲」をしたとして磔に「片付」き、次郎兵衛は庄屋から命令されたとはいえ藩に申告すべきであると判断され、南部口追放に「片付」けられた。

判決は城内の会所において、目付立合のもと、四役人(寺社・郡・町・勘定奉行)が申し渡し、すぐに足軽目付工藤久三郎が責任者となって、御用人3人連名で野内町奉行2人に宛てた越山状を持参し、諸手足軽2人・縄取1人が津軽藩野内番所(青森市野内)まで連行したのである。御城から羽州街道を約45km、宿継人足などつかいながら1日がかりで着いたはずだ。またここには、海側の津軽藩番所とは道を隔てて、山側に津軽藩分家の黒石藩の番所もあった。

さて、野内番所から藩境の狩場沢までは、直線距離にしても25kmほどあり、しかもその地は津軽藩分家とはいえ、他領の黒石領である。

狩場沢の藩境まで如何様に権限の分配や委譲が手続きされ、誰の責任で連行したか判然としないが、藩境で追放の際、戻ってきたら打ち首の旨申含めることになっている事情からしても、弘前から附き添ってきた津軽藩の足軽目付以下諸手足軽、縄取りは藩境まで附き添ったことであろう。そして、既に廻関村の人別帳から除外された次郎兵衛は、藩境を越えたところで、いよいよ津軽無宿として何処かで渡世することになるだろう。

領外追放という刑は、多くの問題を含んだ行刑であり、享保以降8代将軍吉宗により禁止・縮減の方向が打ち出されたが、幕府の人足寄場の設立や名古屋藩の領内追放の拡大政策などを除き、全国的には幕末まで減少することはなかった。

筆者は領外追放になった無宿人のその後を調査したくて、何かそれらしい史料はないかと前々から思っていたが、野辺地町立歴史民俗資料館の鈴木さんにそのことをお話しすると、南部野辺地領から津軽領に追放された例があると教えていただいた。境界の町野辺地であるからこその即答であった。

野辺地町では地元の有志が、長らく地元史料の翻刻を続けておられると伺い、その目録も出版されており、その中に津軽無宿に関するものはないかと期待し、目録を購入した。

あとは、暇な時、目録から見当を付けて国会図書館の野辺地町地元史料集の中を捜すことになる。

〔野辺地戦争戦死者の墓所〕


藩境塚を越え、4号バイパスを海側の市街地へ折れ、旧南部藩野辺地町の馬門に入る。
左手に野辺地戦争戦死者の墓所があった。
戊辰戦争さなかの明治元年9月、新政府側についた津軽・黒石藩が、奥羽越列藩同盟の一員として幕府側にあった南部・八戸藩を奇襲したのである。
津軽藩は、この戦いで多くの戦死者を出し、のち追善のために戦死者の名を石塔に刻んだのである。
筆者の出身地五所川原市の柏原村文作の名も刻まれている。





夫方(荷方)として徴発された柏原村文作の名が見える。字がひとまわり小さい。

彼の死は「戦死」だろうか、「犠牲死」だろうか、あるいは「横死」だろうか。
彼の死から「武士道精神」とか「祖国愛」とうニュアンスが醸されるだろうか。

かれは来たるべき稲刈り、少なくとも稲刈り日傭の見込みを案じていたであろうか。
あるいは、藩から徴発の割当を請けた柏原村の庄屋以下重立ち達から、代(人)銭を払わせたか、借銭帳消しの条件で、この夫役を引き請けたのだろうか。

あるいは、「夫方」であっても、侍達とともに同じ戦いを戦えるという身分的上昇の名誉が、彼を丸ごと引きずってしまったのか。
(津軽藩は、各村から「郷中間」を徴発していた。それが農村の人手不足と荒廃の原因となっていることを郡奉行対馬万右衞門は指摘している。ー元禄九年国日記の記事)

この文作の死は、歴史的なるものと歴史的ならざるものについて、多くのことを語っている。

〔常夜灯〕

旧街道の野辺地川を渡るとすぐ左手に広大な公園と青い海。
そして野辺地のシンボル常夜灯が、陸奥湾の水平線を切って頭を出して立っていた。
左手には夏泊半島とその奥に外ヶ浜の山々。
右手は陸奥橫浜・大湊など江戸期の材木積み出し港の海岸ライン。
正面には脇野沢からむつ市まで、下北半島というマサカリのアゴに当たる海岸ライン。
さらに弁財型北前船みちのく丸が、艀船を待って10町(約1km)程沖合に停泊している雄姿をつい幻想してしまうくらい、全体美しいロケーションである。
(みちのく丸は、後述のように現在、青森市沖館の「あおもり 北のまほろば歴史館」の傍らに係留されている。)



金比羅大権現とある




〔野辺地町立歴史民俗資料館〕


小規模だが、しっかりしたコンセプトで構成された優れた展示だった。館の鈴木さんは、様々な質問に丁寧にお答えくださった。ただ、ご多分に洩れず、この種の文化的分野への予算配分は、厳しいらしく、存続が危ぶまれているらしい。


入口正面に板状土偶(縄文後期・国重文)土偶好きの筆者も思わず息を呑む!

久喜古文書研究会ではおなじみの判鑑、南部藩馬門番所の通行査検のためのもの

伝馬証文、この証文で伝馬1疋を宿役人が工面してくれる

赤漆塗り突起付木胎漆器(縄文前期・国重文)、北奥羽では、三内丸山遺跡などと同様、漆文化が栄えた

野辺地は材木積み出しが盛ん、この杣札は木材伐採許可証である
野辺地には南部藩の代官所があった。ここには牢屋もあった

縄文時代の土偶
資料館の入口のソファでは、ふたりの小学生が「野辺地かるた」をとっていた。
お姉さんふうの女子が読み、弟らしき男子が取ろうとするがお姉さんにとられてしまう。
鈴木さんは、事務室でお仕事。
野辺地はいいところだ、と思った。


〔あおもり 北のまほろば歴史館〕

野辺地町立歴史博物館を後にして、青森駅西口近くの沖館埠頭に引き返した。本来なら野辺地湾に浮かんであるはずのみちのく丸は、今沖館埠頭に係留されていた。



立入禁止となっていたが、うろうろ離れがたい様子の筆者を見て、ご老人が近づいてきた。
「なも、いね、入っても」と言ってくれた。
「んだが、どもども」。
これが、船大工某さんとのやりとりのはじめだった。

高いマストがまず目につく。これは一本杉だ。あと2本の帆柱も船内に横たわっている。
このみちのく丸のマストが高すぎるのが問題だと言っていた。千石船は、通常、水主は14・5人だが、その人員の力ではこのマストは揚がらない、クレ-ンで揚げるということだ。

千石船(150屯)は、玄米4斗入米俵2500俵の積載が可能だが、みちのく丸が米積載仕様に製造されたかは聞きそびれた。材木積載仕様の船は、自ずとまたそのような作りなのだそうだ。





この取り外しの出来る舵が、弁財船の特徴である。
スピードを生むが、嵐に弱く毀れやすい。
ただ、筆者は、この弁財船の舵の姿が、例えばわが津軽新田の農婦のお尻のようで、甲斐甲斐しく、またおおらかでもあり、愛着があるのだ。




船腹(左舷)


船首部分。水押(みよし)が、剥がれている。先日の台風10号の激浪にやられたとのこと。




みちのく丸は、杉材で作られている。
杉は船材としてはやはり弱いという。檜や栗がいいのだろうが、予算には限度があるものだ。
このセンターの継板(名称が分からない)部分も、上にいき次第間隔が段々広がっている。
陸揚げ中、船の前後・中央の支えがバランスよく置かれていなかったからではないかという。
また、船底部分も、腐食がかなり進んでいるという。
いずれにしても、明日9月4日、みちのく丸は陸揚げされ、青森のドック入りと決まっている。
無事に修復され、所有者の野辺地町に帰帆(?)してほしい。



某船大工さんとお話しているうち、「北のまほろば歴史館」の副館長石山晃子氏をご紹介いただき、筆者が年来疑問に思っていた津軽藩元禄期の廻米船についていくつか質問する栄をえた。

石山氏は、弘前大学地域社会研究科の客員研究員(学術Ph.D)でもあり、『近世北奥地域における造船界の歴史的動向』(石山晃子 2014 弘前大学國史研究)は、筆者もすこぶる啓蒙された論文である。

帰りの新幹線の時間を気にしながら、某船大工さんの御名前も伺わず、お姿も見つけられず、またまほろば館の展示も見ることが出来ず、挨拶もそこそこに新青森に向かった。

某船大工さんに限らず、様々な職業分野で、実践的技術の襞々を生活経験から身につけている方々からは、伺えば伺う程、歴史記述にとってかけがえのないものを戴くことが出来る。
そういう無名の方々は、この日本中どこにでもいるはずだ。
歴史家がその事に気づくにはそれ相応の鍛錬が必要だ。

弘前市立弘前図書館の佐藤様、皆様、
五所川原市の郷土史家、また筆者の地域史研究の師、岩崎繁芳様、
外ヶ浜町大山ふるさと資料館の皆様、
野辺地町立歴史民俗資料館の鈴木様、
「北のまほろば歴史館」副館長石山晃子様、
某船大工様、
皆様ありがとうございました、お世話になりました。