2017年1月30日月曜日

〔第14回 将軍上洛中=江戸留守中の関所通行査検〕


2017年1月、イタリアナポリ近郊。ポンペイ遺跡から、冠雪のヴェスビオ山を目の当たりにしました。この透明感溢れる景色。既視感があります。群馬・長野県の〇〇山に似てませんか?また、ポンペイは当時(紀元1世紀)人口2万人余の別荘地だったそうですので、現在の□□沢ですかね。写真をお愉しみ下さい。


ポンペイ遺跡入口から見た冠雪のヴェスビオ山、冠雪は珍しいそうです!


遺跡中の広場、2つのブロンズ像は現代のものです!

ヴェスビオ山麓までは約10kmだそうです!

79年8月24日午後1時頃大噴火、翌25日火砕流によって埋没


さて、今回は少し先を急ぎます。14代将軍家茂は、3代家光以来200年余振りに上洛して、江戸を留守にしました。留守中の関所通行査検はどうだったのでしょうか?


五月十六日
一支配御役所ゟ御用状到来如左
 以宿継致啓上候、然先達而御申越有之候御徒目付・御小人目付御関所通方之儀、御勘定所へ伺書差出、御目付方御問合相成候処、右御徒目付・御小人目付御関所通方之儀前々之通相心得候様可申渡旨挨拶有之候段御達有之候間、則伺書其外写壱冊差進申候、委細右ニ而御承知可被成候
右之段可得御意如此御座候、以上
   子五月十五日           山口市郎次印
                    松澤俊助同
                    小菅十一郎
                    渡辺幸之助同
       嶌田耕平殿
       加藤摝兵殿
       冨田潤三殿
       足立柔兵衛殿
入記
一御上洛御留守中御目付方御関所通方之義二付伺書其外写 壱冊
 御上洛御留守中御目付方御関所通方之儀付伺書
 御上洛御留守中御三家・御三卿方御附人之分房川渡中田御関所通方之儀相伺候処、右御附人之分勿論仮令御直参候共印紙取置通行為致候筈之旨御達付其段番人共相達申候、然処御関所之義御目付方持場ニ而是迄御徒目付・御小人目付等通行之節定式御関所立寄御規定向相変候儀無之哉之旨相尋候儀付右御徒目付・御小人目付之分是迄之通相心得通行為致可申哉、又御目付方ニ而も御留守中印紙取置通行為致可申儀候哉之旨数人共申立候、如何相心得候様可申渡哉此段奉伺候、以上
    元治元子年四月       福田所左衛門印
       
        御勘定所

           (端裏書)御勘定奉行
 別紙之通房川渡中田御関所通方之義付御代官福田所左衛門申立候間、別紙相添此段及御問合候
   子四月

(下ヶ札)
  書面別紙御徒目付・御小人目付御関所通行方之儀前々之通
  其外書面之通相心得候様御申渡可有之候

将軍上洛中は、たとえ御三家・御三卿の家来であっても、又直参の旗本であ
っても、通常通り、判鑑-通行手形(印鑑)合印の手続きは忽せにしないことが
指示されている。ただ、御徒目付・御小人目付については、そもそも関所は目付
方の持ち場(仕事場)であるから、通常通り、「定式御関所立寄御規定向相変
候儀無之哉之旨相尋」ねるやり方でよいということだ。

五月十六日
        水戸殿家来目付方之由
            樫村定之助
栃木ゟ江戸通例之合印ニ而断出候事

同十七日
一日光表為御警衛役々先達通行之処、右之内半隊此度帰府之由、大炮・小銃歩兵人数書証文河野伊予守殿差出右役々左之通
 歩兵差図役頭取      渡辺藤次郎殿
 同差図役         福知右太郎殿
 同下役          柳田治兵衛
  右之外侍弐人、小者三人、右為宿割先通行河野伊予守殿印鑑ヲ以断有之事
 大炮差図役下役並勤方   吉田惣三郎
 右同           大門辰次郎
 大炮組          鈴木芳太郎
  右之者前同断通行大炮方印鑑持参断
 歩兵組          河野伊予守殿
 大炮組組頭        御手洗乾一郎殿
 同差図役頭取勤方     一色純一殿
 右同           山田熊蔵殿
 同差図役勤方       松村雄吉殿
 歩兵差図役頭取      朝比奈織之丞殿
 右同           八田篤蔵殿
 歩兵差図役        坂井八太郎殿
 御持小筒組差図役並勤方  高野竹次郎殿
 御勘定          福知左太郎殿
 御普請役         永倉市太郎
  右両人竹内下野守殿印鑑持参
 陸軍附調役並勤方     柴田挂次郎
 歩兵差図役下役並勤方   岩附廣三郎
 大炮差図役下役並勤方   奥野亀三郎

*役職名と「殿」の有無に注意されたい。関所番士は、自分と比べて、他人の身分・地位
が即座に判断できるのであろう。

一大炮二挺   但附属品共
一小銃弐百拾挺  右同断
 右役々歩兵共三百九拾八人
右惣人数其外通行之節奥野亀三郎・柳田治兵衛立会、当方冨田潤三・加藤杢兵*
出張ニ而見届相通ス

*「出張」:「しゅっちょう」なのか、「でばり」なのか。

一右亀三郎歩兵頭証文持参差出左之通り
     覚
一大炮弐挺   但附属品共
一小銃弐百拾挺  右同断
 外歩兵差図役頭取以下役々共三百拾五人
  御持小筒差図役以下組五拾五人
  大炮差図役頭取以下役々組弐拾八人
日光表為御警衛御持小筒組歩兵組共先達而被差遣候処、此度半隊致帰府候
付書面之御筒持参御関所罷通候間、此段及御断条仍如件
      歩兵頭
 元治元子年五月     河野伊予守印
    栗橋
御関所
当番中
右歩兵組銃隊ニ而相通雀宮立栗橋宿泊り之事

日光警衛隊の半分が、江戸へ帰還する。雀宮から栗橋迄は、約10里(40km)余。

五月十八日
一御用答返翰差出左之通り
 宿継御用状致拝見候、然先達相伺候御徒目付・御小人目付当御関所通方之儀御伺相成候処、右通方前々之通可相心得旨御下知之趣御写を以被仰下委細承知いたし候、右為御報如斯御座候、以上
     五月十八日          当方四人印
        支配元〆四人殿
右同日             水戸殿家来 
                   大幡外記
                    同人家来
                      原勇
 従江戸野州栃木通目付方合印差出断有之事
同廿日             水戸殿小十人之由
                   塚越惣助
 江戸ゟ栃木迄通例之合印ヲ以断事   

五月廿一日           水戸殿*郷士之由
                   二良山両吉

*郷士:農兵のことであろうか。この時期、水戸藩ばかりでなく多くの藩が農兵を徴募した。

  右江戸ゟ栃木迄通合印差出候
同日
一福田所左衞門御役所ゟ御用状到来
  宿継を以致啓上候、然御上洛相済被遊還御候付、明廿一日惣出仕之御書付出候間、御心得右写壱冊差進申候
 一御代官方持諸国御関所之儀、還御相済候も別段被仰渡無之内御留守中之通心得候様御目付方達書到来付、写壱冊差進申候
右之段可得御意、如斯御坐候、以上
  五月廿日
               山口市郎次印
               枩沢俊介
               小菅十一郎
               渡辺幸之助印
   島田耕平殿
   加藤摝兵殿
   冨田潤三殿
   足立柔兵衛殿
御勘定奉行衆ゟ御達書写左之通
        大目付
 御上洛相済被遊還御候付、明廿一日四時惣出仕有之候、此段向々可被達候 
    五月廿日
 右之通御書付出候間写遣之候、被得其意外組合中江者各ゟ可被達候
   五月       *木 甲斐守
               竹 下野守

*片名字:勘定奉行木村勝教と竹内保徳

         組合御代官宛
    〆
御目付衆ゟ御達書写左之通
    (端裏書)「御勘定奉行衆」
 御代官方持諸国御関所之儀、御上洛 還御相済候も別段被 仰渡無之内御留守中之通相心得候様其御関所((ママ))早々御達有之候様存候、此段申達候、以上
   五月         設楽弾正
              佐々木脩輔
   〆
一右之通被 仰出候得共還御日限之儀五月十六日御船ニ而御浜御殿迄御着船被為遊候由御坐候事
 同日右御用返翰壱通之儀付略之


5月16日、将軍家茂は船旅にて江戸に還御した。521日午前10時、総登城が令せられたが、代官管轄の関所番士たちは、通常業務の御達しがあった。






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