2018年1月7日日曜日

〔第25回 関東諸大名へ、浮浪之徒追討命令が下る〕


  


新年明けましておめでとうございます。
今年も皆様よろしく御願いします。

久喜古文書研究会は、現在16名で活動しています。月1回2時間の学習会を、前半1時間は「関所御用留(元治元年)」の精読にあて、後半1時間は天保7年の「久喜町打ちこわし」に関する諸文書の読解に当てています。心がけている事は、原文書の一字一句も疎かにせず、詳細を解き明かす読解の厳密性です。ディテイル追究の繰り返しが、豊かなリアリティーを開いてくれる事を期待しつつ、励んでおります。

今回は、ブログ兼飲み会担当の私の著書『目録で読む北奥新田農民生活史』(風詠社 舘山誠編著 2000円)の広告をさせていただきます。



上の表紙の航空写真を御覧下さい。新田農民達の希望と苦闘が展開された舞台です。何とも神々しいですね。読者諸氏におかれては、初秋の御山参りの時期(9月初旬)、五所川原市脇元の靄山に登りますと、これと似た景色が愉しめます。





竹梱と脇差の画像
「本書は、幕末安政期から昭和の高度経済成長期にかけての百有余年、本州最北の辺境開拓(津軽平野北部)に苦闘した新田農民達の生活実態の現場報告書であ」り、「多くの情報と編者の註を彼処に盛り込んだ『目録』という形式を試みた」ものです。目録編と読解・画像・系図・分析編と二部構成になっています。地元の地名・人名がたくさん掲載されているのも一特徴です。
 農民達の知足精神と助け合いのデクノボー的モラル・センスを彼処に見る事が出来ます。「百姓に歴史はあるか」という歴史学者達に対する一つの答えとして、この編著を読んでいただければ幸いです。
 ご興味のある方は、書店なりアマゾン等のweb販売でお取り寄せていただくか、皆様の地元図書館でリクエストしていただくこともできます。



   六月九日御渡
        土井大炊頭
        久世謙吉
野州辺徘徊いたし候浮浪之もの追々横行相募候付、鎮壓方之儀水戸殿ニ而御所置可有之筈候、就而者*関所之義一際厳重増人数等差出、怪敷もの一切差通し申間敷、且近辺散乱可致も難計候間自領之固厚相心得、暴行之もの無二念討取可申候、尤近領之諸家も討取方夫々相達候間、近隣申合取計候様可被致事

土井大炊頭:古河8万石6代藩主土井利則・従五位下(1831~1891)
久世謙吉:『武鑑』(諸国御固場所付)において、松平山城守(出羽上山3万石第9代藩主松平信庸)とともに浜御殿を5千人で警備となっている。下総関宿第8代藩主久世広文の幼名。従五位下・出雲守から隠岐守遷任。
関所之義:この場合の関所は、古河土井氏に臨時勤番が下命された房川渡中田関所と関宿久世氏管轄の関宿川番所(関所)のこと。

〇浮浪之徒の鎮圧は、本来水戸殿が処置すべきことではあるが、事態の悪化もあるかもしれず、支配管轄関所の厳重取締と自領内の警備に心がけ、近隣大名・旗本・代官と連絡を取り合って事に当たるよう支持されている。

    〆
       *秋元但馬守
野州辺徘徊いたし候浮浪之者追々横行相募候付、鎮壓方之義水戸殿ニ而御所置可有之筈候、就而者日光山御警衛厳重相心得、且自領固之儀も厚申付、暴行之もの無二念討取候様可被致候、尤近領諸家も夫々討取方之義相達候間、近隣申合取計候様可被致候事
   〆

秋元但馬守:館林藩7万石藩主秋元志朝(ユキトモ)・従四位下奏者番(1820~1876)

〇館林藩秋元氏には、日光山警衛を下命した上で、前期と同様の事が通達されている。


井上河内守殿御渡覚書写

       覚
野州大平山集屯之もの共所々横行狼藉およひ難捨置候間、為鎮壓方水戸殿ゟ御人数被差出候筈付、近領諸家相達候趣も有之候間、居城無之面々も在所又陳屋有之家来差置候向、人数(差出力ヲ合セ討取程遠之分ハ)模様次第援兵差出し御府内不立入様可取計勿論之儀、外々散乱不致ため弥領分知行取締厳重相立、川々等心附怪敷もの聢と相正し時宜次第搦取討取可申候
右之趣関八州領分知行有之面々可被相觸候事
   子六月十日 神保伯耆守ゟ差越
 〆

井上河内守:上総鶴舞藩7万石藩主・従四位下・侍従・老中、市原に陣屋(1837~1904)
(差出力ヲ合セ討取程遠之分ハ):この部分、足立柔兵衛家の留書には存在するが、島田家留書にはない。書き落としたのであろう。
神保伯耆守:神保長興は文久3年11月迄騎兵奉行だった。900石の旗本で、神田神保町の町名は、この神保氏の屋敷に由来している。「六月十日」時点の任官名は調査の必要あり。

〇居城もなく陣屋に家来を置いている小規模大名・旗本も力を合わせ、必要なら他領へ援軍を出し、浮浪之徒が江戸府内へ立ち入る事のないよう指示されている。

   水戸殿家老
大平山屯集いたし候者共召捕御人数御差出之儀付、此段被仰立候趣も有之候得共、右最前相達候説諭之御趣意徹底不致及軽挙候而者如何付、先穏便為引払候様相達置候処、当今所々散乱不容易所業および候間、諸家領分ゟ申立候次第も有之候、付而者最早難捨置候付、此程被仰立候通早々御人数御差出厳重御所
置可被成候、尤近領援兵之儀も御願之通夫々相達置候間、此段可申上事

  〆

〇大平山に屯集した浮浪の徒は、水戸殿の説諭などでは効果がなく、最早捨て置けない状況であるから、水戸家も軍隊出動をもって鎮圧すべきことを水戸家家老宛に下命している。


       松平大和守
       松平播磨守
              戸田越前守
       土屋采女正
       牧野越中守
       鳥居丹波守
       水野日向守
       石川若狭守
       細川玄蕃((ママ))
       戸田長門守
       松平大炊頭
       井上伊予守
野州辺徘徊いたし居浮浪之徒追々暴行増長いたし候付、鎮圧之儀水戸殿ニ而御所置有之候筈候得共、右人数出之遅速不抱早々追討可被致候、尤近領諸家も同様相達候間、申合不討洩様可被致候
   右写六月十日於御殿木村甲斐守殿御渡し


*松平大和守:松平直克(なおかつ)川越・前橋藩主、政事総裁職として一橋慶喜とともに橫浜鎖港を推進、天狗党鎮圧には消極的であったが、元治元年6月罷免
*松平播磨守:松平頼縄(よりつぐ)常陸府中藩主・水戸松平一門、石岡に陣屋
*戸田越前守:戸田忠恕(ただゆき)宇都宮6代藩主、天皇陵修復の建言・調査・修復の功を認められる。天狗党をめぐっては藩内の対立を招き、減封
*土屋采女正:土屋寅直(ともなお)土浦藩主、烈公徳川斉昭の従弟、天狗党討伐には消極的
*牧野越中守:牧野貞直(さだなお)笠間藩主、天狗党鎮圧には積極的に対応
*鳥居丹波守:鳥居忠宝(ただとみ)下野壬生藩主、天狗党に対しては藩内対立があったが、鎮圧の姿勢
*水野日向守:水野勝知(かつとも)結城藩主、戊辰(ぼしん)戦争に際しては幕府側にたち新政府側の藩士がまもる結城城を攻めて占領したが、新政府軍の反撃に敗れ(結城戦争)隠居謹慎 (日本人名大辞典)
*石川若狭守:石川総管(ふさかね)下館藩主、雁間詰、若年寄陸軍奉行兼帯、新政府知事・権少教正
*細川玄蕃頭:細川興貫(おきつら)常陸谷田部・下野茂木藩主、熊本細川枝族、のち貴族院議員
*戸田長門守:戸田忠行(ただゆき)足利藩主、宇都宮戸田家の分家、幕府陸軍奉行並、のち貴族院議員
*松平大炊頭:松平頼徳(よりのり)常陸宍戸藩主、第6・15回注を参照
*井上伊予守:井上正兼(まさかね)下妻藩主。天狗党鎮圧のための追討軍本営が下妻に置かれたため、下妻陣屋は天狗党との激しい戦いの末に焼かれてしまった。慶応4年(1868)の戊辰戦争においては、最後の藩主である正巳は新政府軍に与しようとしたが、旧幕府側からの圧力を受けて一部の藩士が会津藩との戦いで会津側に与したため、新政府からそれを咎められて改易に処されかけた。しかし藩の家老が懸命に弁明し、さらに佐幕派であった今村昇らを殺害したため、改易の危機をかろうじて免れた(ウィキペディア)。
*御殿:この文脈上では、本丸の御殿勘定所のことだろう。
*木村甲斐守:木村勝教(かつのり)、勘定奉行並


〇御殿勘定所(本丸内にある)において、勘定奉行並木村甲斐守より右写が、「浮浪之徒」が「散乱」すると思われる地域の十二大名に手渡された。各大名の江戸留守居役が呼び出されたのであろう。内容は、水戸家の出兵を待たず、各大名が近隣の御料・地頭領・私領の者と「申合」をして「浮浪之徒」の追討に当たるべしというものである。