2018年4月3日火曜日

〔第28回 真岡陣屋警衛に向かう幕府旗本軍〕


久喜古文書研究会は、4月2日総会をもち、平成30年度がスタートしました。会員16名。引き続き島田家文書(久喜市文化財・久喜市所蔵)の元治元年7月の関所番士「留書」の精読と、久喜町打ちこわしに関連して天保7年「琴寄村打ちこわし」の史料(埼玉県立文書館管理)を読んで参ります。難解な史料ですが、会員の皆で知恵を出し合って、天保期打ちこわしの核心部分へと踏み込みたいと考えております。

新規会員大募集です。好奇心のみ持参でおいで下さい。


栗橋関所番士たちの支配責任者、代官福田所左衛門が、関所周辺の廻村のために出張してきた。
関所では、大名・旗本の軍隊・兵器が大量に通行していった。その中で、幕府御料地の真岡代官所陣屋の警衛のため、関所に差し掛かった寄合旗本の石川伊予守・近藤登之助の軍と兵器が、足止めされた。合印の判鑑がまだ届いていないという初歩的ミス。近在にいたと思われる代官福田所左衛門の所まで早駕籠を飛ばし、御用状と印鑑を渡され、恐らく夕暮時過ぎて渡河していったと思われる。



六月十五日
一七ツ時前*石川伊予守殿・*近藤登之助殿此度御代官山内源七郎殿支配真岡陣屋警衛被仰付、急速人数彼地出張之由ニ而合印差出候処未タ当方へ御達無之、通方差支之趣申談遣候処、当御代官昨夜出張先旅宿迄右家来早駕籠ニ而罷越、差図御請候由ニ而所左衛門方ゟ御用状到来左之通以御用状致啓上候、然石川伊予守殿・近藤登助殿合印鑑弐枚差進申候、右御警衛人数之義付合印鑑へ御引合早々御通し可被成候、右可得御意如斯御座候、以上
      子六月十五日  山口市郎次印
            松澤俊助
             *不詰合無印
            小菅十一郎
            渡辺幸之助
     此方四人殿

*前書之通可被得其意候、以上
     福田所左衛門 印

*石川伊予守:三河大島村を本貫地とするの寄合旗本(7000石)、石川靭負のことか。

*近藤登之助
 交代寄合の旗本。遠江国引佐郡今川氏に従っていた国人の一人。通字として祖先藤原叙用に由来する「」(もち)の字が使用された。永禄11年(1568)の徳川家康による遠江侵攻を機に転属、家康の配下として近藤秀用が多くの功を挙げた。井伊直政の寄騎に付けられて働きを示すと、秀用の晩年には一万七千石の所領を有する大名に累進したが、浜名湖北岸に在った所領を子息たちに分知したため、以降は旗本として存続した。近藤登助(のぼりのすけ)とは、秀用の直系(宗家)を示す通称である(ウィキペディア)。
*不詰合無印:山口市郎次の捺印だけあり、他の三名はその場に居合わせず無印とある。代官福田所左衛門の出張に同行していたのは、山口市郎次だけであり、そこで山口市郎次が押捺し、所左衛門が奥書捺印したのであろう。

*「前書之通可被得其意候、以上
     福田所左衛門 印」
 この部分が、「奥書」である。奥書とは、書類に記載された事実が正しい事を証明するために、その末尾に書き入れられた記事(原則として異筆)(日本国語大辞典)を指す。
ここでは、所左衛門の御用状(山口市郎次の筆か?)の末尾の二行と奥印を指す。

〇こののち激しい戦闘が行われた真岡陣屋警衛のため石川伊予守・近藤登之助の兵員・武器の大通行が関所に差し掛かったが、肝腎の判鑑がまだ関所に届いていないので、通すわけにはいかない。そこで家来が早駕籠で代官福田所左衛門の出張先まで出かけ、御用状と印鑑二枚を受け取って来た。一行は、午後4時頃から関所で待機していたのであろうが、その日のうちに通行していった。


   入記
一石川伊予守殿外壱人印鑑弐枚
一市郎次ゟ*内状  壱封
  〆
 以手紙啓上仕候、然石川伊予守殿外御壱人御警衛人数持参致し候鉄砲通方之儀、夫々御関所之規則も御座可有候得共、御警衛之義殊*差掛り候義付、差支不相成様御通し方御取計有之候様可申入と*御内命御座候間、左様御承知宜御取計可被下候、右可得其意如此御座候、以上
  六月十五日  山口市郎次
房川渡御関所
     御当番衆中様

*内状:ナイジョウ。内々の手紙。
*差掛り:切迫する(日本国語大辞典)
*御内命:ここでは代官福田所左衛門の内々の命令のこと。

〇山口市郎次の内状は、以下のような内容である。真岡陣屋警衛のための兵員・鉄砲の関所通行については、種々規則はあるだろうが状況は切迫していることでもあり、警衛に支障をきたさないよう通行させるというのが、代官の命令である。

右同日
一石川伊予守殿人数百人
  鉄炮拾挺 八匁ケヘル
  具足四領 真壁直右衛門断出証文差出候
   〆
一近藤登助殿 士分・足軽共五拾五人其外通
  ケヘル弐拾挺
  小具足五拾五人分
     鈴木為之進持参断候
右之通野州真岡御陣屋為警衛通行
   〆
右之外諸家武器人数等大通行ハ候得共相記不申、右両家合印差支等も有之次第相記ス

〇石川家・近藤家は合印に瑕疵があった事情から留書に記したが、他にも多くの兵員・武器が通行していった。そのことは書き記さない。この記事からも分かるように、この頃の銃は、ゲベーレ銃が主であった。