『紀要 第3号』を刊行しました。ぜひご覧ください。
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ゴッホの『古靴』を思い浮かべていただきたい。若い彼が神学校や伝道学校就学を諦め、炭鉱労働者や病人の世話など慈善活動に挺身し、さらに画家を目指してパリへ赴いた頃履いていた靴だと言われる。その靴を「自画像」的に描いた作品。その実在感と写実性。……馬船に馬と人と下肥など載せた図を描けるか?渡賃はいくら?近くの耕作渡船場の手形は?その取り締まり方は?村人は関所逃れの旅人を賃渡していなかったか?夜中の通行は?幕末、天狗党関係の人や荷物・武器の往来とその査検は?何故庶民女性の関所通行も厳重だったの?……わたしたちはトリビアルな物や事、庶人の生活を追求します。分析・総合的手法を駆使する手前で、「永遠の初心者」(フッサール)の目でかつての現場(史資料)をためつ眇めつします。史資料の解釈を駆使した過去の現場に対する「批評」の手前で、まず息づく「共感」を梃子にした現場の歴的的再現がありはしないか(かつてあったのではないか)。古文書はその入口……
内容を紹介します。
①元治元年天狗党騒動下、栗橋関所の通行査検の様子。②元禄七年後半期の弘前藩版「御仕置裁許帳」③在方支配の懸案事項について、弘前藩郡方による「格帳」④本州最北の津軽西浜地域と現つがる市新田地帯の地方証文の読解から、土地請け戻し慣行と年季売りや質入れなどの土地移動の実態を読み解く。⑤埼玉県加須市琴寄の天保期うちこわし
①は栗橋関所番士たちの御用留の翻刻・訳・註です。元治元年4月19日から5月21日迄の番士留書。関所周辺の間道の厳重取締、関所に鉄炮を備える件、日光方面の幕府軍の人員と荷物の関所通し方の件、水戸家家来と称する浪士たちの取扱、いずれも合印・判鑑・添触という従来の査検方法の厳守によって対応しようとする番士たち。しかし緊急時に応じた臨機の対応を要請されもする番士たち。番士↔代官支配所の手付・手代↔代官↔勘定所↔勘定奉行↔老中、番士↔目付方において、伺書↔御用答・御達書・御附紙などのやりとりを丁寧に粘り強く執り行う番士たちの職業的実意を読みとることができます。
②越前新保から外ヶ浜に入った小商売の者が、債務不履行の村人たちを訴えたが、逆に籠舎、荷打船の浦手形発行、念仏小屋の破壊命令、親不孝者が親の訴えで領外追放、古切支丹類族の出生届、合船(造船)に関わる上納金や金子調達事情、庚申塚・行人塚新規建築の禁止、生類憐れみ禁令、水呑から高無百姓へ呼称変更、元禄八年上方廻米目録、狄(津軽アイヌ)による膃肭臍差上、座当等火縄材上納、他
③宝暦九年~文政十二年までの在方支配に関して、弘前藩郡方において決定された諸きまり。賞罰、出火、変死者、行旅取扱、刑罰、海損、救米、熊膽値段、初米、高岡参詣・革秀寺参詣・遠慮縁坐(連坐)の及ぶ縁類の範囲と日数。とくに、行旅取扱に関する事項は、詳細かつ貴重なもの。
④は江戸中期、本州最北の津軽領の西浜(現深浦町追良瀬)や新田地帯(現つがる市森田下相野)の地方証文を詳細に解読した。そこから分かったことは、土地請け戻し慣行が津軽領の農民たちにおいても、生きていたこと。それが土地売買や質地取引に大きな影響を与えていたこと。上記地域は何れも土地生産性が著しく低く、津軽地方で「田増米」と称される作得米は、究めて小さかったこと。農民たちは藩への上納や自家生計のため借銭米を繰り返していたこと。しかし、有力農民においては土地売買・質入れが思いの外活発であり、土地の耕作権や用益処分権たる土地所有権が、利をもとめて頻繁に移動していたこと、などがわかった。生産力が低く、作徳の小さい地域でも、農民や商人も加わり、土地移動は頻繁であったのである。また、この地域の高利息もまた目立った現象である。
④は、現加須市琴寄の天保期の打ちこわし。今回は粘り強い古文書の読みから、打ちこわしを企画・推進した中心的存在や野次馬的に参加した人々を、その役割と参加意志の強弱等を基軸に打ちこわし勢組織の模式化を試みた。それはまた、当時、参加人員の出身の村々が抱えていた問題とも深く関連した分析視角をも必要とする。さらに、打ちこわし勢の員数も通説よりかなり少ないと推定。
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内容を紹介します。
①栗橋関所番士留書による天狗党騒動のリアルな記述。
②栗橋~伊勢、尾鷲・新宮の難コースの伊勢・参宮記。
③元禄期弘前藩版御仕置裁許帳
④埼玉県加須市琴寄の天保期うちこわし。
⑤津軽アイヌの「おたらべこたん」の比定地の追究。
⑥本州最北の津軽西浜の地方証文から「人間抵当」の実態。
①は栗橋関所番士たちの御用留の翻刻・訳・註です。元治元年4月の8日間、天狗党関連の水戸藩・幕府軍ほか緊急事態下の関所通行の査検をどうするか。登場人物は 田丸稲之右衞門・斎藤佐次右衛門・美濃部又五郎・山国兵部外。
②は久喜市中里の旧家の伊勢参宮記。大変詳細な旅の記録です。しかも、伊勢から尾鷲・新鹿・新宮・那智・本宮の難コースをとり、大阪・奈良・琵琶湖・京都・中山寺と、約50日間の強行軍記です。
③は元禄7年前半分の弘前藩版御仕置裁許帳です。酒狂・相対死・寄鯨・捨子・生類憐れみ関連・遊女追放・牢死・アイヌ関連・今別石・切支丹出家・縁坐などいろいろ。
④は、現加須市琴寄の天保期の打ちこわし。粘り強くかつ丁寧な古文書の読みが、従来の通説を覆す見事な例。頭取砂原村安蔵は在所で獄門(ただし牢死)、誰が付けたか「暗光信士」という。輪中地帯の排水路を巡る利害関係者たちの深刻な対立を図式化する。
⑤は、弘前藩庁日記の解読から生まれた小論文。津軽藩の「犾」=アイヌの人たちの生業、狩猟に関わる記事から、「おたらべこたん」の比定地を追究する。
⑥は江戸期、本州最北の新田地帯やその周辺の農民たちの土地借用証文や抵当証文を解読。中小農民や地主の証文から、激しい土地移動による地主-小作関係の出来と庶民の暮らしの不安定を写実的に観察する。深浦町追良瀬、つがる市下相野とその周辺の証文。
水戸殿
印鑑
印
目付方
上下
弐百弐拾 七人
印
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家老
*公辺
市川
三左衛門
御目見
以上
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印 鑑
印
市
川
三
左
衛
門
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