2018年2月5日月曜日

〔第26回 八月十八日の政変後、長州浪士も北関東に屯っているようだ〕

夜の川中、作場船の取締をいっそう厳重にした。また、「浮浪之徒」の鎮圧軍が、関所を通行し北上する。関所には非常の備えのために、古河藩士10名が勤番、中田には「援兵」が詰める。

さて、今回は筆者の出身地、青森県五所川原市の「立佞武多の館」の画像を愉しんで戴きます。
過日(1月2425日)、「歴史的」(?)ともいわれた大地吹雪の中に躍り込み、見事な佞武多を間近に見学、撮影してきました。








毎年8月4日から8月8日迄、街に繰り出します。ただ、この館の4Fの撮影スポットから見る圧倒的でしかも繊細な色彩感と造形には、息をのむ程素晴らしいものがあります。是非一度、五所川原に来て、「化人(バケト)」に化粧・扮装して御参加下さい。また、同館1Fに設置されている版画(旧五所川原市立南小学校の生徒作のものを元にした市民有志制作の陶版壁画)がまた、素晴らしい。地域を開拓し、岩木川氾濫や度重なる大飢饉の克服に苦闘した人々が活写された、五所川原の歴史絵巻は圧巻である。次回には、その画像を貼り付けますので、愉しみにして下さい。

  〆
六月十二日
一支配御役所へ御用答並伺書差出分左之通り
当八日十日附ニ而両度御差立宿継之御用状相達致拝見候、然川中見張不寝番等之儀、御関所非常駈着之者申付、私共見廻為相勤候様先便申立候処、右取締方私共ニ而取計、尤御入用之義急速御沙汰御坐候様被仰立候趣被仰下承知仕候

〇川の不寝番を「御関所非常駈着之者」にさせ、自分たち番士達が取締のため
見廻ることにした。その「入用」(費用)も急ぎ上司へ御願いしてあるという事
で番士達は承知した。

一最寄作場船取締方兼申立置候処、夫々領主・地頭及御掛合、其上御差留方可被仰聞候処、差向候義付時宜寄私共取計可申由被仰下是又承知致し候、  去亥年長州附属之浪士共、此節手放相成長州表不残引払、野州辺可立越之趣相聞候付、猶又厳重御取締被 仰渡御書付御写壱冊被成御廻落手承知致し候

〇地元の作場船取締については、それぞれ作場渡支配の各領主にお伺いするのが筋ではあるが、緊急の事でもあり状況次第で私たち関所番士が取り計らうようご指示いただき承知した。
  また、昨年(1863)八月十八日の政変で朝廷の保護を失った長州藩の「浪士」達が、下野辺りに「立越」してるようであるから、その取締も厳重にするようにという書付も戴き承知した。

一外*酒井下野守殿鉄砲通し方請書略也

*酒井下野守:酒井忠強(ただつよ)、伊勢崎藩主、元治元年灌漑用の八幡(やはた)(新沼)完成させた。明治18614日死去。51歳。(日本人名大辞典)

一水戸殿御家来通方之儀付別紙伺書壱通差上候間、急速御差図被下候様仕度奉存候
右之段御報旁如斯御座候、以上
  六月十二日   足立十兵衛
         冨田潤三
          加藤摝兵
          嶌田耕平
    渡辺幸之助殿
    小菅十一郎殿
    松澤俊助殿
    山口市郎次殿
追啓、然野州辺徘徊いたし候浮浪之徒追討之儀付諸家御達有之候、御関所之義一際厳重可取計、別川々心付怪敷もの聢と相糺、時宜次第搦取討取可申旨、其外御書付御写壱冊御達し被成落手委細承知致し候、猶厳重可取計旨被仰下、是亦承知致し候

〇「浮浪之徒」の「搦捕討取」(からめとりうちとり)の命令と書付写を受け取り、委細承知したということ。

一*御代官様無程出張之趣為心得被 仰下承引仕候、以上
*御代官:房川渡栗橋関所番士達の上司、福田所左衛門のこと。
  〆 
入記
 一伺書    壱通
 一別紙    壱冊
   〆
 房川渡中田御関所通方之儀付伺書

一水戸殿御家来通方之儀付、*勤番*土井大炊頭殿者頭*鷹見半左右衛門ゟ別紙写之通り御触達御座候趣ヲ以、私共今日打合有之候得共、右其御役所ゟ御関所へ御達無之内当四月中右御家来通方相伺候節、*板 周防守殿被 仰渡候御附札之通、*矢張相心得通方取計可仕哉、依之大炊頭殿家来ゟ私共為心得差出候御達書写並周防守殿被仰渡書御附札写相添此段奉伺候、以上
  子六月十二日    足立柔兵衛
            冨田潤三
            加藤摝兵
             嶋田耕平
    福田所左衛門殿
      御役所
     〆

*勤番:江戸時代、大名の家臣が交代で出府し、江戸の屋敷などに勤務すること。あるいは遠方の要地に出張して警備につくこと。また、その人。(デジタル大辞泉)この場合は、元治元年四月十二日より古河藩士10名が鉄炮10挺を装備して房川渡栗橋関所の関所番に当たった事。但し、関所の平常業務や夜番は致さず、緊急事態対応の臨時的な一隊であった。
*土井大炊頭:土井利則(としのり)、下総古河藩主。
元治元年(一八六四)段階では、幕府から水戸藩天狗党関連の投降者百余名を預けられ、その半数を処刑しなければならなかったが、明治元年(一八六八)になると、古河城内の貯米すべてと、金一万数千両ほか武器馬匹の献納を官軍から強要されたうえ、さらに各地の警備や会津討伐にも出動させられた(国史大辞典)。
*者頭:戦国・江戸時代の武家の職名あるいは格式の一つ。一般に歩兵の足軽,同心などからなる槍(長柄(ながえ))組,弓組,鉄砲組などの頭(足軽大将)をいう。侍組(騎兵)の頭(侍大将)である番頭(ばんがしら)につぐ地位にあった(デジタル大辞泉)
*鷹見半左右衛門:鷹見泉石息子、家老(?)。
*板 周防守:片名字、板倉勝静(かつきよ)、備中松山(高梁)藩主、周防守・阿波守・伊賀守。幕末に二度老中襲職。安政の大獄(1858年)では、寺社奉行兼奏者番として寛大な処分を主張して罷免される。老中就任後、生麦事件および安政の大獄関係閣老の追罰と連坐者の赦免を処理し、文久三(1863)年三月将軍徳川家茂の上洛に随行し、攘夷実行の勅命を奉承して六月帰府したが、その行われ難いのを知って辞表を提出して許されず、各国公使と横浜鎖港談判を開始し、池田長発の一行をヨーロッパに差遣した。元治元年(1864)六月老中を罷めて帰藩し、十一月長州征伐に藩兵を率いて出陣。のち徳川慶喜とともに大政奉還。のち榎本軍の五稜郭に拠ったが、東京に出て自首。のち上野東照宮祠官(国史大辞典)。
*矢張:依然として、動かさないでそのまま(国語大辞典)。


〇水戸殿家来の関所通行について、土井大炊頭殿家来より差し出された今回の御触(「大目付」)に従うべきなのか、以前四月に老中板倉様から命令された付札の趣に依然として従うべきなのか、番士達は迷ったため、両方添えて江戸の代官役所へ問い合わせている