2016年8月1日月曜日

〔第5回 合印・判鑑・添触〕

今回は、合印(あいいん)判鑑(はんかがみ)添触(そえぶれ)がどんなものか確認します。
印判(いんばん)書判(かきはん)の基本的説明・歴史については、『印判の歴史』(石井良助 明石書店 1991年)に分かりやすく書かれてありますので、そちらを御覧下さい。


〔翻刻文〕
 〆
子四月十九日         水戸殿内目付方    小林平之丞
従江戸野州宇都宮迄通目付方合印持参断出候事

同廿日            水戸殿御家来石川熊武釼術塾生之者
                       古谷 主税
                       松本桂之丞
                       福嶌恭之介
宇都宮ゟ江戸へ通目付方印鑑持参

               水戸殿目付方  所 兵蔵
宇都宮ゟ江戸表通目付方合印鑑持参断出候事  

右同日            水戸殿御家来  中村松太郎
 野州栃木宿ゟ江戸表急用之由ニ而相通目付方印鑑持参手札差出候事
  附、右之者先達立原朴次郎と同道いたし、朴次郎義当時栃木宿罷居候趣、浪人ハ未タ大平山罷居凡人数弐百人余、未タ日々五六人も何方となく集り候由松太郎ゟ承り候事
同日
一日光在勤御目付方ゟ御用状到来、以宿便致啓上候、然御目付様御徒目付方并拙者共日光表御用中家来通行之節、別紙印鑑ヲ以旅行為致候間、右印鑑引合之上相違も無之候ハヽ、無差支御通可有之候、尤江府ゟ差進可申処差向急御用向相兼家来差遣候間、右ニ而御取計可有之候、此段申達候、以上
               御小人目付    磯部福之助印
 四月十八日                  吉澤嘉一郎同
  房川渡中田御関所御番人中


       
             御目付  

      印鑑  高木宮内

     御徒目付
     小野鑑吉郎

     志村 永蔵

       御小人目付
 印      吉沢嘉一郎

 同      磯部福之助

 同      中村益之助

 同      斎藤八十吉

 以上        
  

これが予め関所に届けられている判鑑です。印鑑とも言う。原文書は、もちろん縦書、は黒印。以下同-筆者注)
現在、いわゆる「印鑑」・「ハンコ」と呼称されるものは、厳密に言えば「印章」のことです。) 
 
                     
日光表御警衛為御用歩兵方役々被差遣候付、家来并荷物等度々往復之節、別紙歩兵頭印鑑ヲ以其御関所通行為致候間、右引合相違無之候ハヽ、無差支御通し可有之候、差向候儀付此段拙者共ゟ申達候、以上
 四月十八日         御小人目付       磯部福之助印
                           吉沢嘉一郎同
 房川渡中田御関所御番中


追啓別封御目付御徒目付御小人目付且歩兵方印鑑受取書序之節拙者共迄御申越可有之候、以上
 

      歩兵頭
  印鑑  河野伊豫守

         判鑑=印鑑-筆者注)
 
右之通り弐封して来添触如左
 

          日光表御用先
           御小人目付
 房川渡中田         吉沢嘉一郎
  御関所          磯部福之助 
   御番中
         添触の包紙-筆者注)





 


    添 触      御小人目付
                吉沢嘉一郎
       (添触の封紙(ふうじがみ)-筆者注)



 此油紙包御用状二通急御用
 付差立候条、得其意宿々
 無遲滞継送り置、中田宿房
川渡御関所急度可
相届事
        
四月十八日       御小人目付   吉沢嘉一郎印

                   鉢石宿ゟ
                   日光道中
                   中田宿迄
                   右宿々問屋役人中

右之通り送り来事




〔訳文〕
 〆
子四月十九日         水戸殿内目付方    小林平之丞
右は江戸より下野国宇都宮まで通る目付方合印を持参して関所通行許可を求めた

同廿日            水戸殿御家来石川熊武(※18)釼術塾生の者
                       古谷 主税
                       松本桂之丞
                       福嶌恭之介
宇都宮より江戸へ通る目付方印鑑持参

               水戸殿目付方  所 兵蔵
宇都宮より江戸表へ通る目付方合印鑑を持参して関所通行許可を求めた  

右同日            水戸殿御家来  中村松太郎
 下野国栃木宿より江戸表へ急用のとのこと、目付方印鑑を持参、また手札も差し出した
  尚、右の者は先日立原朴次郎(※19)と同道の者だが、朴次郎は現在栃木宿にいる様子、浪人は二百人余りがまだ大平山におり、日々五・六人も何方となく集っているらしいこと、松太郎より伺いました
同日
一日光在勤の御目付方より御用状が到来した、
宿便で御手紙差し上げます。
御目付20)様・御徒目付21)方ならびに拙者共(小人目付※22)が日光表で御用中に、家来の(関所)通行の際、別紙印鑑を持参して旅行させますので、右の印鑑(=判鑑)に引き合わせの上間違いなければ、支障なく御通しください。 (このような事は) 本来、江戸から申上げるべきことでありますが、差しあたりの急御用のついでに家来を遣わしますので、そのように御取り計らいください。このこと通達します、以上
               御小人目付    磯部福之助印
 四月十八日                  吉澤嘉一郎同
  房川渡中田御関所御番人中

(御目付一人・御徒目付二人・御小人目付四人の判鑑、略)

日光表警衛のため、歩兵方役人の派遣につき、その家来や荷物等度々往復する際、別紙歩兵頭印鑑を持参させ御関所を通行させますので、右の判鑑と引き合わせ間違いなければ、支障なく御通しください。急ぎのことゆえ、拙者共より通達します、以上
 四月十八日         御小人目付       磯部福之助印
                           吉沢嘉一郎同
 房川渡中田御関所御番中

追啓 別封の御目付・御徒(おかち)目付小人(こびと)目付歩兵方印鑑受取書ついでの時拙者共までって下さい、以上

(歩兵頭判鑑、略)

  
右之通り弐封して来添触如左

(添触の包紙と封紙、略)


 この油紙包の御用状二通は急御用
 であります。そのことを御了解いただき、
 遲滞なく宿継送りして、中田宿房
川渡御関所へ必ず届けるように
        
四月十八日       御小人目付   吉沢嘉一郎印

                   鉢石宿ゟ
                   日光道中
                   中田宿迄
                   右宿々問屋役人中


右之通り送って来ました

  

〔注釈〕
 (※18)立原(ぼく)次郎(じろう)水戸総裁立原孫。天狗党と諸生党との対立の中、朴次郎は松平頼徳に随い、水戸城に派遣されていたが、諸生党の抵抗にあってこれと戦い、823日討ち死。享年33
    (ウィキペディア)

※19)目付:幕府で、若年寄の支配に属し、旗本・御家人の監察をはじめ、江戸城内の巡検、火災の予防、諸役人の勤怠の調査、礼式・規則の監察、将軍の供奉、評定所裁判の陪席など、広範かつ重要な役職であった。配下に徒目付・小人目付がいた。(日本国語大辞典)
江戸幕府の場合は元和3年(1617年)に設けられ、定員は10名、役高は1000石。若年寄が管轄し、江戸

城本丸及び西の丸におかれた。配下に徒目付、小人目付がおかれ旗本、御家人の監視や、諸役人の

勤怠などをはじめとする政務全般を監察した。有能な人物が任命され、後に遠国奉行・町奉行を経て

勘定奉行などに昇進するものが多かった。老中が政策を実行する際も、目付の同意が無ければ実行不

可能であり、将軍や老中に不同意の理由を述べる事ができた。その権能は幕末の思想家栗本鋤雲が

著書『出鱈目草紙』の中で「その人を得ると得ざるとは一世の盛衰に関する」と評すほどのものだった。

幕末期、外国との会談・交渉の際に、目付を同席させたが、その際に目付の職務を説明した所、「目付

とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを同席させているのか。」という嫌疑を受けた。幕府は

外国の職務で目付に相当するものが無いか調べ、万延元年遣米使節で小栗忠順が目付として赴

いた際には「目付とはCensorである」と主張して切り抜けたという。(ウィキペディア)

※20)徒目付:徒目


※22)小人目付:目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変
         事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会った。定員五十人。小人横目
とも。 (日本国語大辞典)















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